今朝、山本周五郎の「栄花物語」を読み終えました。
山本周五郎の本は2,3冊読んだことがありますが、どれも、人生の不条理、無情が書かれているのに、読み終えた後、何故かそんなに暗い気持になりません。地味な作風だけど、練りに練られた構成など、ホントの職業作家、プロって感じ。
栄花物語もそうですし、先に読んだ作品でも、落ちぶれたお侍さん、もしくは大将軍といった各キャラクターの、生き方、口を通して、「生きるとは」という問いに対する考えが表現されていて「ふんふん」と引き込まれて読んでしまいます。
ふと、気付いたのですが、最近の「何とか賞」の本読んでも何も残らないのはこういうメッセージがないからなんだろうな。ストーリー・テリング≒エンターテイニングに徹している。
それもいいのでしょう。今の時代はそれを望まれているのでしょう。
でも、私は「それプラス」を求めて本を手にしているから、山本周五郎には大満足。
この本では、
「なんだよ、人間なんて。好きだ、貴方のためだ、なんていうけれど、そんなの嘘だ。皆自分がそうしたいから、尽くす、愛する。皆自己中じゃねぇか」と問われます。
……うんうん、そうかもしれない。自分の対家族への奉仕なんて、まさにそれ。家族に尽くす自分を「愛情深い」なんて思い勝ちだったけど、違うかもね。 私がそうしたいからそうしている。これを忘れないでいよう。子供の、夫の重荷になりたくないものね。
「人間と人間が係わって愛だ憎しみだってやってるが、それだけで世の中回っているわけじゃない。偶然の、運命の大きなうねりの中でひねりつぶされ、振りまわされている」
……本当にそう。昨年3月の地震だって、たくさんの人生を飲み込み、破壊した。誰々のせいじゃなく、誰々の意図でもなく。
「死を恐れて、死ぬ瞬間まで生に固執していきる。死が怖いのなら諦めて受け入れた方がよっぽど楽だろうに、死の恐怖に向かい合い、貪欲に生きたいと思う、これほど人間臭い生き方はない」
……ほんとうに、人間臭い生き方。私もそうやって最後の瞬間まで生を諦めず人間臭く生きたいけど、できるかしら。
などなど。色々考えちゃった。
それにしても、「人間臭く生きる」っていう表現、かっこうつけてなくて、嘘っぽくなくていいなと思いました。
運命に振り回され、日々の不条理の中でも、自分の良心と葛藤しながら、損となってもいい、自分らしく、人間臭く生き通す。
山本周五郎の話は例え主人公が非情に殺されても、その人が最期の瞬間まで人間臭く生きているから、読者である私は、そんなに落ち込まないのだと思います。
奇しくも、山本氏は私が生まれた年に亡くなられたよう。そんな時を超えて出会えるところなど、本って素晴らしいですね。