2020年12月31日木曜日

母親のあるべき姿とは

 



クリスマスを過ぎてから、読書三昧の日々を過ごしています。

今年は書く方に力を入れていましたが、一年という区切りが訪れる今、一休みするのが正しいように思え、書きかけのものをセーブして一旦閉じました。
そして手を伸ばしたのは、お気に入りの小説。
あらすじは全部知っているのに、
新しく購入した本もあるというのに、です。
本って、読む度に発見がありませんか。それはきっと、以前と違うところに心のギアに入っているからなのでしょうね。

久々の読書は、太めのストローで美味しいジュースを吸い上げるときのように、きゅーっと、頭に、心に言葉がしみ込んでいきます。身体が求めていた、という感じです。

今日もお昼のあと、肘掛け椅子に背を委ね、片手にコーヒーカップ、もう片手で膝の上に本を開きます。

ページは主人公の幼き頃を回想するシーン。学校から帰ってくると、おばあちゃんにおやつをねだる、という下りに、ふと、私も、子どもの頃のある日が蘇ります。

あれは小学校三年生の時だったでしょうか。学校帰りに、近所の貴美ちゃんのところに遊びに行きました。
貴美ちゃんのお母様は珍しく留守にされているようで、テーブルにはおやつが準備されています。木目調のボウルに、手作りのアイスボックスクッキーがこんもり、格子模様のと、渦巻き模様。まるで料理の本の写真そのものの丁寧な出来上がりです。その上には、チューリップ型に切り取られたピンクの折り紙があり、「貴美ちゃん、お帰りなさい。ごめんね、今日は夕方まで留守番よろしくね」というメッセージが。

それをみたときの衝撃。
あの日、私は「将来、こういうお母さんになりたい!」と、強烈に願ったのでした。

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わが家は、このチューリップ事件の1、2年前まで、イギリスとアメリカで8年ほど海外で過ごしました。兄・姉がまだ幼児の頃に渡米し、私は海外で産まれました。要は、母は、海外で子育てというものを学んだような人なのです。
なので、母は海外流子育てに感化されていて、日本に帰国してからも、洋風というか、合理的というか、大雑把というか、そういう育て方をしました。

生活習慣も、当時、母は仕事はしていませんでしたが、諸々のアクティビティで忙しく、私が学校から帰ってくるときには留守にしていることが殆どでした。そのことを「ごめんね」と、罪悪感持っていた様子はありません。

また、おやつが用意されていたこともありません。お腹が空いたら、自分で適当に棚を探して食べます。ましてやチューリップ型に切り抜いたメモに、用件もないのに「お帰りなさい」というメッセージを残されているようなことはありませんでした。寂しいときは、遊びに行ったりテレビ見たりしていました。(本当は勉強するか本でも読むべきだったのでしょうが)

母は、料理が嫌いというわけではないのです。クッキーやケーキも作ってくれることもありました。ただ貴美ちゃんのお母様のようにぐるぐる巻きや格子模様のクッキーを試みることはしません。クッキーと言えばスプーンで掬ってドロップして焼くか、天板に敷き詰めて焼き上がったらナイフで切る、といったタイプでした。

帰国してしばらくすると、私も周りの友達と同じでありたい、と思うようになります。日本的な環境には、同化圧力というのがあるのでしょう。服装や髪型といった見た目もそうですが、生活自体もみんなと同じでありたかった。十分凡庸だったのに、普通でありたい、と切に願ったのです。

そのためには、まず母に家に居てもらいたかった。「昨日はママと一緒にクッキー焼いたの」と私も友達にさりげなく言ってみたい。いかにも「普通の幸せ」っぽいじゃないですか。その時に焼くのは、もちろん、丁寧に作ったアイスボックス・クッキーです。

お弁当も、ピーナツバターのサンドウィッチかお握りだけ、デザートは日本の大きな皮付きの林檎一つドーン、ではなく、おかずの種類も色々で、林檎もちょっとになっちゃうけれどウサギに切ったのがいい。
家での食事も、「ミキちゃんスパゲティ好きでしょ?」とそれだけにするのではなく、ほかに色々入ったサラダがあって、出来合いの、粉を溶いただけのでもいいから小さなカップにポタージュスープもあって欲しい。焼き魚のときは、小鉢が幾つかあって、好きではないけれど漬け物もあって、味噌汁もあって、そういう細々したのがいい。
だって、テレビ観ているとそうだもの、友達の家に行くとそうだもの。

周りからのすり込みで、「あるべき母の姿、あるべき家庭の情景」というのを作りあげてしまっていたわけです。母とは何ぞや、家族とは何ぞや、と立ち止まって考えることなく、イメージ先行の、浅薄な「母親像」です。

思春期は、そのイメージに嵌まらない母に反発ばかりしていました。よくある、母が娘にこうあって欲しい、というやつの逆ですね。

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そんなことをひとしきり思い出した後は、嫌でも今の自分の母親ぶりを振り返ることになります。これはもう失笑するしかありません。

定職を持たない身ですが、子ども達が下校時に留守にしていても、罪悪感はありません。ママにもママの生活リズム・交友関係があるのだから、当然でしょう?という姿勢です。

食事、うちは常に一品料理です。
フランス料理はコース風に頂くので豪華なイメージですが、その実は、メイン以外は、フロマージュやシャルキュルトリ(サラミとかパテといった加工肉料理)など、出来合いのものが殆ど。

ここで、フランスらしく「夫も料理してくれますし」、と言えたら良いのですが、夫は料理の「り」の字もわかっていないような人なので、私が担当です。ただ「お前がやって当然」という考えはありません。どんな簡単な料理でも感謝の言葉をもらっています。

そもそもフランスの普段の食生活はシンプル。よって求められているハードルも低く、毎日の食事づくりは気楽なのです。ご飯を炊いただけでも「やったー!」ってなもので、小鉢数種に漬け物、その上味噌汁など出した日には、「トゥーマッチだよ、全部食べられない」といわれかねません。

お菓子も、買いに行くより楽だから、という理由で、週に一二度何かを焼いていますが、それも本当にシンプルなものばかり。デコレーションなんて、数えるほどしかやったこともありません。
クッキーに至っては型を抜いたことも、格子を組んだこともなく、いつも岩のようにごつごつしたドロップ型クッキーです。

ちなみに、年の瀬を迎えていますが、海外にはそういう慣習がないことをいいことに、大掃除もせず、お節料理もなし。

それでも、自分は結構いい母親だと思っています。図々しいでしょう?
お腹を空かせることなく、寒い思いをさせることなく、やりたいと言ったことは取り敢えずやらせてあげているんだから、OKでしょう、という。

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今思うと、なんで子どもの頃(~若い頃まで)はあんなに「あるべき母親像」に拘ってしまったのか、ほんとうに残念です。
母を責める必要もなかったですし、私自身も、肩身の狭い思いをする必要はなかった。遠足のとき「崩れないように」と、母がミネラル麦茶の空き箱に詰めてくれたゆで卵やお握りを、恥ずかしそうに食べる必要もなかったのです。美味しかった、と素直に満足し、母に伝えればよかった。

別の言い方をすれば、もっと自由に生きていたらよかったのです。
自分の物差しで、ママのこういうところ好き、嫌い、と判断したらよかった。
自ら、自分を、そして母を、型にはめて、はみ出さないようにしていた。はみ出ないで、と懇願していた。
嗚呼、なんて無駄なストレス、そして残念なことでしょう。

今年は、出来合いのポテトサラダや冷凍餃子を食卓に乗せる主婦を失格者として批判するSNSがあったと聞いています。
これは極端に古い感性の持ち主による発言だと信じていますが、これが話題になってしまうあたり、まだまだ擦り込み活動が盛んなんだな、と憂っています。

若い皆さん、何かに漠然と憧れるとき、否定したくなったとき、一瞬立ち止まって、その根源を見つめてください。「それってどういうことなのだろう」とまずは考えてください。
私のように擦り込まれないでね。自分に鎖をかけないでね。
自由な心を大切にしてね。

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長くなりました。
明日は大晦日。色々あった2020年が間もなく幕を閉じようとしています。今年も読んで下さって有り難うございます。来年はもっと沢山書きたいな、と思っています。お付き合いのほど、どうぞ宜しくお願い致します。
皆様のますますのご健勝を祈りつつ。

ドメストル美紀