2021年11月15日月曜日

Zと言えば……フランスの今①

 


Zと言えば、何を思い浮かべますか? フェアレディーZ? それとも漫画?

フランスでは、少し前まででしたら、Zといえば、怪傑ゾロ(Zorro)でした。ゾロは立ち去るときに「Z」の文字を書き残すのです。夫は子どもの頃にアメリカのTVシリーズで親しんだとかで、わざわざDVDを買って息子達が幼い頃に見せていましたし、義妹などは、子どもにディエゴ(ゾロの平常時の名前)と命名したほど、ゾロは国民的英雄なのです。

でも、今フランスで「Zと言えば、何を思い浮かべますか?」と尋ねられたら、ゾロではなく、Zemmourと答える人が圧倒的に多いと思います。エリック・ゼムールは、最近政界に急浮上した政治評論家。どのような顔立ち、いずまいの方かというと、こんな感じです↓。ぜひ動画で、その語り口や所作を観てみて下さい。

いかが思われましたか? 小柄で、お世辞にもハンサムとは呼べない初老の男性ですが、言葉に淀みがなく、冷静かつ自信たっぷりでしょう? 私はただただ圧倒されてしまいました。(好き・嫌いはまた別)
フランスでは半年後に大統領選がありますが、ゼムール氏の人気はうなぎ登りで、今では現職マクロン氏に次ぐ支持率を得るまでになっているのです。

現代の怪傑ゾロ、それとも、危険な扇動家?

ゼムール氏は、元はフィガロ紙のジャーナリスト・批評家でしたが、昨今ではニュース番組を持つなど、テレビでも論客として活躍していました。

そこにコロナ禍があり、市民の政府への不満が高まる。また外出禁止期間中、家にいるのでテレビを見る人も増え、ゼムール氏は持ち番組にて、多大な知識とデータを駆使した持論を繰り広げファンを増やしていきます。意外なことに、かなり懐古主義というか反リベラルな主張が多いのですが、若者層の心を掴みます。
ちなみに、ゼムール氏の政治スタンスは、ドゴール主義ーーー外国の影響力から脱し、フランスの伝統的なアイデンティティーを追求すること、だそうです。

ーーーここまで読まれて、「何か恐いなぁ」と思われる方も多いのではないでしょうか。「雄弁で」「扇動的で」「若者を魅了して」と来ると、かつての残酷な独裁者を彷彿してしまうのは私だけではないでしょう。それに「『外国の影響力を脱し』って、反グローバリゼーションじゃないの? 時代錯誤のナショナリストですか」、と。ちなみにゼムール氏は、人種差別的発言をしたとして懲罰を受けたこともあります。本当に、まだまだ分からないところが多いのです。
ここで取り上げた理由は、ゼムール氏を推すためでも、アンチを増やすためでもありません。ただ、日本のメディアでは、「ゼムール=極右」として報道されていて、それでは「ルペン(極右政党主)の二番煎じか」と受け取られ兼ねません。「大統領選も、決戦では極右が落選するのは毎度のこと、大丈夫なんでしょ」と軽視されそうで気になってしまって。

というのも、私の感触ではゼムール氏はルペンより手強いと思うのです。フランス人がどうしてこの極端で反リベラルなゼムール氏に魅了されているのか、私なりの考察と感触をお伝えしたくて書いています。

Zと言えば、「ジェネラシオンZ」

若者にも人気があると触れましたが、ゼムール氏の思想を支持する若者層の有志グループ「ジェネラシオンZ」の活動は目を引くものがあります。96~2010年生まれのジェネレーションZとゼムール氏のZを掛け合わせたグループ名が利いていますよね。ゼムール氏を22年の大統領選で当選させようと、街にポスターを貼ったり、メディアで氏の思想について語ったり、SNSで拡散したり、ビラを配ったりと、熱心なこと!(サイトのサムネールはこんな感じです)

実は私も、16歳と14歳というZ世代の息子達を通してゼムール氏の存在を知りました。わが家は新聞もテレビもみない家なので、ゼムール氏の人気者ぶりを知りませんでした。それがある日、息子達が夕飯に降りてこないので呼びにいくと、「ゼムール聞いているから」とネット配信を見ていて、「誰それ?」となり、知ったという。長男も次男も、学校で「ジェネラシオンZ」に参画しているクラスメートがいて、それで興味を持ったようです。子ども達が政治に関心を持ったことが嬉しくて(日本でも是非そうなって欲しい!)、と同時に、ゼムール氏が危険人物でないことを確認したくて、ゼムール・ウォッチを始めたところがあります。

以下、ジェネラシオンZのサイトより、「ああ、これは確かに共鳴する人が多いだろうな」と思ったトピックを取り上げたいと思います。

理解できる点

まず教育。ゼムール氏は、政府は教育にイデオロギーを盛り込み過ぎだ、と批判しています。
この点に関しては、以前より息子達から同様の不満を聞いていました。
たとえば歴史。「共和国主義」をインプットしたいために、そのスタート地点であるフランス革命への時間配分が多く、中世からいきなり革命に飛ぶような感じだそうです。近年、フランス革命に関しては批判も多いというのにそこは飛ばし飛ばしで、革命の次には大戦時代にまた飛ぶという。王政時代やナポレオン時代もフランス史の上で重要なはずなのにバランスが取れていない、と歴史オタクの息子達は不平タラタラ。その上、革命では王をギロチンに掛けた、大戦時代の植民地政策では悪いことをした、とフランスを下げるようなことばかり押しつけられるから嫌になる、「もっと自分の国に誇りを持ちたいのに」と言います。Z世代はポジティブ大好きなのです。
これは自国を美化して欲しい、ということではないようです。息子達は通常のクラスに加え英国式のカリキュラムをオプションで取っているのですが、そこで習う英国史では、王政が好き放題をやっていた頃から各革命、議会制大戦も全部均等に扱われているそう。そこから英国の素晴らしさを知るとともに、当然、現代の倫理観と照らし合わせた批判も生まれる。「それでいいじゃないか、自由に考えさせて欲しい」と息子達は言います。

近年のイデオロギーといえばLGBTQやフェミニズムですが、これも授業に取り込まれています。これもゼムール氏はこの2点は教育と関係ない、と批判します。私は「関係ない」というのは強すぎると思うのですが、一方で、フランスの、この2点への取り組み方が唐突かつトゥーマッチで戸惑っているというのは本当です。でも、「やり過ぎじゃないの?」と声を挙げられずにいる、何故ならLGBTQとフェミニズム自体に疑問を呈しているのか、と間違った受け取られ方をされそうだからーーーそういう人は私だけではないと感じています。

では、どんな風に教育に盛り込まれているか。フェミニズムを例を挙げると、長男の高校では、昨年一年フランス語の授業はフェミニズム文学ばかり読まされました。秀逸なフランス文学は沢山あるのに、何で文学的には中庸な仏フェミニズム文学を優先的に取り上げるの? とうんざり顔でした。
LGBTQについても、中学生の次男は、「『差別はやめましょう』と繰り返されるのだけど、元々差別する気もないし、LGBTQは個人的なこと。差別心を持つ生徒がいたとして、授業で上辺だけの教えを聞いて『そうか差別やめよう』と心変わりする人なんていない。もっと個人的な経験がなければ、人の気持ちなど変わるものか」と言います。
頭でっかちで尊大な物言いの息子達に、なに生意気言ってんの!と思うと同時に、私も肯かざるを得ないものを感じています。

次に移民対策。ゼムール氏は移民に対して非常に厳しくて、移民受け容れを休止すべきといいます。理由として、フランス国内には莫大な人数の違法・合法移民がいて国民の生活を圧迫しているとし、データを挙げて説明します。例えば生活補助を受ける世帯の43%はフランス国外で生まれている(≒移民)とか、亡命・移民申請の6割強が却下されるのだが、実際に送還されるのは15%ほどだ、とか。ちなみに不法移民や罪を犯した移民を母国に送還したくとも、母国が受け容れ拒否するので実質上無理だそうです。

移民に関しては、多くのフランス人はオブラートに包んで呑み込んでいるところがあると思います。昨今は「移民反対」と声を挙げるルペン氏の極右政党が台頭しているとは言うものの、それでも正面切って「反移民です」と言い切るフランス人は少数派でしょう。難民が舟で地中海を漂流してやって来るニュースをみて、心痛めないフランス人はいないと思います。
でも一方で、社会保障・徴税に関して、多くのフランス人は不満を抱えているという現状もあり。特にサラリーマンやミドルクラスは、税回避策を取るほどの資産はないのでガッツリ取られる。だけど恩恵を受けるのは貧困層で、その多くは「移民」。ミドルクラスも、家賃・ローン、教育費、食費と家計は苦しいのに、何故なけなしのお金で膨大な人数の移民を養わなくてはならないの?と、何年も何年も不公平感を抱えプスプス燻っているのです。

膨大な人数……政府の移民政策が寛容なこと(日本に比べたら絶対に!)もありますが、加えるに、フランスの移民は大家族なイスラム系が殆ど。一人受け容れてしまうと、家族を芋づる式に母国から呼び寄せるので一人が五人、十人となります。稼ぎがなくとも、フランスは社会保障が手厚いのでそれで何とか暮らせるのです。それ狙いの移民も多いと言われています。働いて稼ぎたい移民ももちろんいるでしょうが、受け入れキャパを越える数でくるから、言葉や職業訓練も追いつかない。よってゲットーができ、犯罪率も増えます。

それでも、移民批判すると非人道的だとバッシングされるからぐっと口を噤んできたフランス人。プスプスと胸の中で煙が溜まっていく一方でした。

そこにゼムール氏が現れ、タブーを恐れずに、「移民政策、おかしいでしょう」ときっぱり明解に言語化してくれた。「ああ、息が出来る!」とほっとした人が多いのだと思います。

……長くなってきましたので、次に賛同できない点に行きましょう。

理解できない点

ゼムール氏はとにかくタブーを恐れずに挑発的というか、揺らぎがないというか、「ええーっ、そこまで言う?」と思うこともしばしば。

たとえば、移民政策に関しては、ゼムール氏は経済的理由だけでなく、文化的にもフランスのアイデンティティーを脅かしていると攻撃します。宗教の自由は結構だけど、フランスの文化と同化できないのであれば、国民となることは許されるべきではない、というのです。
その中で、嘲笑に晒されているものに名前の問題があります。ゼムール氏は、移民は、フランス国民になるのであれば、ファーストネームもフランスらしい名前ーーキリスト教の聖人や聖書、もしくはフランスの歴史に出てくる名前にすべきだ、というのです。
これを初めて聞いたときは唖然としました。余りにも時代錯誤!今さら「フランスらしい名前ではくてはダメ!」なんて無理です。私も、もし将来フランス国籍を取得した場合、フランスらしい名前に改名しなさい、と言われたらかなり困惑することでしょう。この主張に多くの人が笑ったように私も失笑しましたよ。

でも、息子達は笑いません。「あれはゼムール、引っ込めるべきだ」とは言いますが、「言いたいことはわかるんだ」と。「どういうこと?」と聞くと、息子達は逆に、
「どうしてママは僕達の名前をフランスらしい名前にしたの?」
と聞くのです。その名前が好きだから、恩を感じている聖人の名前だから、などそれぞれ理由はあります。
「でも何で、和名はセカンドネームにしたの? 」
と追求されます。それは、息子達はフランス、もしくは西洋社会で生きて行くことになるだろうから、フランスらしいファーストネームを選び、和名はセカンドネーム扱いでいいか、と考えたのです。
「でしょ? ゼムールもそういうことを言いたいんだと思うよ。フランスで生きて行くなら同化する姿勢を見せるべきだ、って。ーーーでも、いずれにせよあれは引っ込めるべき。そういう時代じゃないんだから。ディエゴ(冒頭で触れた、息子達にとっては従兄弟)も笑っていた。『今さらジャックとか呼ばれたくないよ(ディエゴは十二使徒ヤコブのスペイン語版で、フランス語だとジャックと変わります)』って。ゼムールは子どもっぽいんだよ。喧嘩売られると一々買って引っ込めないんだから」
と意外と冷静な彼ら。これもZ世代の特徴なのでしょうか。

命名事情 1993年までは、フランスに子どもの命名に関しては「フランスらしい名前をつけること」が義務化される法律があったようです。結構最近まで命名の自由はなかったのですね。なので、これを覚えている世代のフランス人には意外と受け容れられる主張なのかもしれません。

ーーーさっきから、「理解できない」といいながらも肯いているじゃないか、と指摘されそうですが、そこなんですよ。ゼムール氏の主張は、一瞬「何それ!」と身構えさせられるのですが、氏の理由付けを聞いていると「うーむ」となってしまうのです。言いくるめられているのか、それとも、彼は真実をついているのか。

ちなみにゼムール氏は二重国籍にも反対だそうです。正直私は、もう国境とか愛国心とかは、ない方が健全な気がするのですが、どうなのでしょう。またイスラム系については、女性が頭や身体を隠す布、ヒジャブの着用も許しません。女性蔑視がベースにあるから、だそうです。

ゼムール氏自身はアルジェリアからのユダヤ系移民2世で、両親はフランスに同化するのに苦労したそうです。だからゆえ、同化しようと努力せずに、社会保障のベネフィットにたかる移民達が許せないのでしょう。
逆に言えば、同化する努力をして社会に貢献している移民に関しては穏便に扱ってくれるのか、一移民の私としては大いに気になるところです。

フランス大統領選は2022年5月!

まだ政治国際情勢の項目に触れていませんが、長くなりましたので割愛します。それにジェネラシオンZのサイトでは、ゼムール氏を大統領に推しているというのに、この二つの項目の扱いが短いのです。その上「経済」や「国防」についてのページもないという。
甘いなぁ、と苦笑いすると同時に、それほどに若い層は、フランス人としてのアイデンティー問題に危機感を持っているのかな、とも考えたり。

思うに、マクロン政権は、やたらに「EU、EU!」と推しているけれど、「EUって何?27カ国も加盟しているけれどイギリスは抜けたし、よくわからない。それにEUの存在がフランスの国としての色を希薄化してない?」と皆が不安になってきたのではないでしょうか。その中で「ドゴール将軍の頃のように、愛国心が強い、古き良きフランスに立ち返りたい」と思う人が増えていたのかもしれません。

最後になりますが、実は、ゼムール氏は、大統領選に立候補していません。十中八九立候補するだろう、と言われています。発表をギリギリまで焦らすのは何故なのか。選挙権を持たない私は外野でしかありませんが、今回の大統領選は面白くなりそうです。
(カボチャ対決の写真は本記事と無関係です!)


2021年9月10日金曜日

喪失について


 

今朝、大失態を犯してしまいました。まだそのショックの中にいます。わが家のアンティークの置き時計を壊してしまったのです。

この度、暖炉の上の壁面に鏡をはめ込むことにしたのですが、職人さんが来る前に、その大きさを決めようと、ああでもない、こうでもない、と鏡代わりの薄い板を夫といじっていたところ、それが倒れて、マントルピース上にあった置き時計が床に落ち、壊れてしまったのです。

すでにひびが入っていた置き時計だったので、見事に木っ端みじんに飛び散りました。そのショック。心臓が痛いまでにズキッとして、さーっと何かが引いていく。一瞬、心の中が真空状態になったかのようでした。

これが喪失感というやつか、と思いながら、ふと、先日読んだ、石井麻依氏の『貝の続く場所にて』が呼び起こされました。
ドイツの幻想的な街に住む仙台出身の「私」が、震災で失った人への想いを昇華していく道行きが描かれている、と理解しましたが、それで合っているかな。
「言う」「聞く」「思う」といった動詞すらも暗喩で表現する濃厚な文章を追ううちに、震災や病で失われた命に宿っていた記憶たちの声が聞こえてくるようでした。(と、私も下手な比喩を使ってみる)
物語の途中、ドイツの森に、杖、縫いぐるみ、壊れたガラス細工、貝殻といったゴミが現れる、という下りがあり、いやでも津波が去ったあとの東北地方太平洋沿岸部が目に浮かびます。そういった「ゴミ」の一つ一つに、誰かの記憶が宿っているというのは、10年前のあの光景を見た人なら知っていること......。胸が掴まれたような苦しさを覚えました。

私も、今朝、置き時計の破片を拾いながら、そんな記憶に思いを馳せました。夫の祖母のものだった、と聞いています。どんな時を刻んできたのでしょう。それが、今朝、止まった。ごめんね、ごめんね。

それにしても、ものが壊れる、なくなるというのは、実にあっという間なんだな、と、今朝の小さな事故で知りました。あっ、と思った次の瞬間には、粉々に壊れている、という。何か、人生の教えを賜ったのではないか、と考えたり、同時に、この置き時計は夫のものでしたが、いつの間にか、私の中で「私達のもの」と認識が変わっていたことに夫婦というものを感じたり、失ってしまった哀しみを噛みしめると同時に、あまりの木っ端みじんな終わり方に、さばさばする気持ちもあったりと、色々なことが頭を巡っています。

そんな今朝の心のスクリーンショット。
波は続いていますが、Life goes on. 
買い物にも行かなくてはなりませんし、取り敢えず、コーヒーでも淹れることにします。
読んでいただき、感謝しつつ、
Allez, bon weekend!!

追伸:石井麻依氏の『貝の続く場所にて』は、今年の芥川賞の受賞作です。同時受賞の、李琴峰氏の『彼岸花の咲く島』も読みました。どちらも、物語性があって、個性があって、素晴らしかったです。

2021年5月27日木曜日

幸せとか。

 

画像1

今日は、考えがまとまらずに空中分解する可能性大のお題、「幸せ」にチャレンジしてみたいと思います。大仰なことを書こうとは思っていませんのでご安心を。ふーんふーん、とお気軽に読み流して下さいませ。

少し前のこと。
夜、ティヨールという葉のハーブティを片手に、ふらふらとネット上で道草していると、ある女優さんのインタビューに出会いました。若い頃から活躍している方ですが、気づくと彼女も四十代後半の、確固とした大人の貫禄を纏う女性になられていました。
長いインタビューの中で、「貴女にとって、幸せとは何ですか」と訊ねられると、大女優は腕を組み、首を傾げ、言葉を探されること数秒。途中、あ、と閃いたようですが、次の瞬間また、うーん、と躊躇われる。長い睫毛を伏せた横顔は、皺すらも美しくて私も画面に見入ります。
そして、ついに心を決められたよう。カメラをじっと見据えられると、ゆっくりと、噛みしめるように答えられました。
「幸せとは、簡単に、使ってはいけない言葉」、と。

私、はっとさせられました。
美味しいものを口にしたとき、道端の小花の愛らしさを目にしたとき、素晴らしい小説を読み終えたとき、何かにつけて、「幸せ」を噛みしめていた私。まさに、幸せという言葉を、安易に、簡単に使ってきました。
だってそうよ。小さな幸せを確認しながら暮らしていかないと、くらくらするほどの悲劇一杯の世の中だもん、鬱になっちゃうわ、と、幸せを屑ダイアのようにかき集めてきたのです。

でも、彼女の言葉で考えさせられました。
幸せって、確かに、もっと尊いことなのかも、と。
幸せは、「嬉しい」「感動!」「心躍る~」というのとは別格の言葉であり、境地なのかも、と。
でも、じゃ幸せって何?

そんなことが頭の片隅にあった先日、日本の母に「母の日コール」すると、いつものフレーズ、「はいはい、ありがと。お陰様で幸せですよ。あなた達が幸せでいることが何よりも幸せ」と、繰り返します。
いつもなら、「はいはい、こちらは大丈夫ですからご安心を」などと、笑いながら答えるのですが、今年は、「ああ、なるほど!」と、膝を打つ私でした。
幸せって、自分のことではないのかも。大切な人のために喜ぶ気持ちなのかも、と。

ちょっと優等生過ぎる答えかもしれませんが、きっとそうなのだと思いますす。自分のことではなくて、大切な誰かのために喜ぶとき、一緒に祝うとき、温かい何かが湧きあがってくる、あれが「幸せ」。そうに違いない。
だから、大切な誰かが─── 家族でも、友達でも、一方的に想っている誰かでも、ペットでも、見知らぬ民に対してでも───そういう存在がいない人は、たとえ社会的に成功していて大金持ちだとしても、幸せを感じるのは難しいのだと思う。

私も大女優を見習って、これからは「幸せ」という言葉を「簡単」に使わず、貯金しようと思っています。そうすると、何か大きな幸せが、大切な人達に訪れそうな気がしませんか? そんな幸せを一緒に味わわせてもらえれたら、それこそ、至福ってやつですよね。

そして自分のためには、「嬉しい」「美味しい」「きれい」「素敵」「感激!」「有難い」「感謝」……数え切れないほどある喜びの言葉を使って、その時々の気持ちを表そうと思います。

さて、窓の外に目を遣れば、朝からの雨も上がったよう。また森を歩いてくることにします。ウォーキングは私の小さなし……じゃない、大きな喜びとなりつつあります。いつかそんな話も。

皆様、どうぞ引き続きStay safe。ご自愛下さいませ。

2021年5月7日金曜日

自由とか。



いつになく肌寒い5月。先ほどから雨も降りだしました。そんなベルサイユの書斎より、最近、頭の中で切れ切れに考えていることを、忘れないうちに書きつけておきたいと思います。しばし、徒然なる私の考え事にお付き合いくださいませ。

まずは自由について。

最近頭の中で繰り返される映像があります。
それは、あるピアニストが演奏する姿です。
ピアノが好きな長男のお陰で、その動画に出会いました。

日本だけでなく世界を代表するピアニストですから、他にも動画は沢山あり、コンサートのビデオなど、以前にも、幾度か観たことはありました。細面の、品のあるお顔立ちに物静かな表情を浮かべて音楽を奏でる姿。美しくて理知的な印象がありました。

ですが、それらは随分昔のものだったようです。私は、自分が年取ったことを忘れがちなのですが、ついでに、昔から知っている人も年を取らせない、という癖があり、時折、こんな風に歳月の流れに足元を掬われることがあります。
私の中では永遠に40代だったピアニストも、その動画では、グレイヘア世代になられていました。ウィキペディアをみると1948年生まれとあります。2017年の録画ですのでピアニストは、古希一歩手前、というところでしょうか。
元々スレンダーだったお姿は、さらにほっそりとされ、化粧っ気はなく、服装も、森を散歩するときのようなカジュアルな装い。この動画は、音楽の講義風景を録画したものですので、語りも多く、初めて彼女が話す様子を観ました。明確で歯切れ良く、大勢の方を前にしても固まることなく自然体で話される姿が、堂々とされていて格好良いこと!
私の頭の中では、もっと寡黙でしとやかな人だろう、と想像していたので、「ふーん、ふうん、こういう方だったんだ」と、その意外な実像に惹きつけられていきました。

そして、いよいよ演奏。モーツアルトの協奏曲で、「ダダーン!」と始まります。
その時の彼女の身体。
全身が喜びに震えているように感じました。あの細い身体、両手から、どうやってあのようなパワフルな音楽が奏でられるのか。いや、無学なことは自覚していますので、音楽については口を噤みましょう。
それに、私、音楽どころではありませんでした。彼女の身体と手の動き、それだけで、私の小さな心はいっぱいいっぱい。鍵盤を叩く度に、ピアニストの身体が弦となっているかのように振動します。それを観る私は、うわーっ、うわーっ、と、それだけ。目尻さえも濡れてしまって、そんな自分に驚きました。

何といえば良いのでしょう。まるで、感受性という生き物が、自由に、そう、自由に自分を表現している。そんな印象を受けたのです。誰の評価も、誰の目も耳も気にせずに、制約一切なく、自分が感じたものを表現している。顔が、身体が、音を奏でるという至上の喜びを表している。
これが、自由というものなのか、と思いました。

コロナ禍で動き回る自由を奪われる日々の中、精神の自由を知るという、神様のいたずら。あれから、幾度となく、あの動画を見ています。時には音すら消して。音楽の動画だというのに、です。

その度に、考えます。ピアニストが持っている「自由」のことを。
きっとあの方は、少なくとも音楽に関しては、人に嫉妬するようなことは、ないでしょう。嫉妬心から解放された心ほど自由なものはない、と思いませんか。
きっと、認められたい、とか、そういうのもない気がする。
いや、ピアノを弾く喜び、それを人に伝えたいとか、教えたいといった願いはあるかもしれませんよ。でも、弾いているときは、ただただ嬉しくて、そのうち没頭し始めたときには、無心になっていると思います。
そうか、無心になっているとき、人は自由なのかな? 
自分の邪心や野心からも解き離れて、唯々もっと高いところに羽ばたいている、そんなイメージかな?

もちろん、自由の境地に達するために、ピアニストは、幼い時から死にものぐるいでピアノと向き合ってこられたのでしょう。そして、古希近くなって自由になった。ああ、なんて厳しい。なんて素晴らしい。

……と、勝手なシナリオを描いて、勝手に憧れています。
自由。
本当の自由。
自由な心。
ため息の午後……。

コーヒー淹れて一服することにします。
次は、幸せとか、そんなことについて書いてみたいと思っています。
ではまた!

2021年3月4日木曜日

読書日記*『絶望読書』頭木弘樹著

 


ご無沙汰しております。今年はここでもたくさん書きたい、と言っていたのに、一ヶ月以上経っていました。

何故かというと……
今回ご紹介する『絶望読書』(頭木弘樹著)という書籍に続く話なので、少し遠回りして、最近の、私の心模様について書かせてくださいませ。

皆さんは、絶望を感じたこと、ありますか?
多分、ありますよね。大人ですものね。
でも、私ったら、今までそういうことがなかったのです。
絶望未体験でここまできてしまった。

幸運に恵まれていたから、ではありません。今までの出来事を年表にしたら、失敗と挫折のオンパレード。それでも、毎回、タダでは起きるものか!と、立ち上がってきたのです。
この「タダでは起きるものか」と思う時点で、絶望は感じていないってことですよね。実際にはタダどころか、大赤字な状態で立ち上がってきたのですが、それでも絶望することなく、「この失敗を生かして」とか「次回こそ必ず」とか「この挫折はきっとどこかに続いている」と希望を胸にやってきたのです。

でも、今回は、そう簡単には希望を見いだせない。
いや、多分心の整理はついていて、覚悟も出来つつあるので安心してください。
何のことかというと、長年の夢だった「小説家になる」というのは、実現しないんだろうな、とようやく分かってきたのです。エッセイの方では、有難いことに出版させて頂く幸運に恵まれましたが、何せ物語好き少女のまま大人になったもので、創作小説でデビューしたい、と夢に見ておりました。
当たり前? ほんと、そうですよね。小説家になるだなんて何百何千分の一の確率ですものね。
それなのに、私はずっと、「いつかなれる!」と信じてきたのです。何度も小説賞に応募し落選しているのですが、それでも「ダメ元だったからね」と気にせず、「次こそは!」と立ち直ってきたのです。なんと能天気なことだったのでしょう。

そんなことをやって来たこの10年余り。
それが年末頃に、「私って、ひょっとして才能がないのでは」という、当たり前な疑問が湧いた! 
幾ら能天気な私でも、文豪のような才能を持っている、とは露程も思っていません。でも、私なりのオリジナリティはあるし、書いていれば文章力も上がるだろうし、と10年以上、ずーっと書くことを優先させてきたのです。自分が書いた小説が書籍化されて、誰かが読んでくれて、それが小さくとも感動となってくれることだけを夢に見てきたのです。ずっとそう信じていたから、自分を持つことが出来た。
でも、そういう日は来ないんだな、ということが、或る日、すとんと見えてしまった。
血の気がさーっと引きましたっけ。ぽけーっとしちゃいましたっけ。
*********

そこでいよいよ本題に入ります。
頭木弘樹氏の『絶望読書』です。
この本のことを知ったのは、ちょうど、小説家の夢が遠のいているころのこと。ツィッターで見かけて、「ああ、ああ、呼ばれている」と吸い込まれました。実際、検索して調べると、次のようなメッセージが出てくるではないですか。

著者より
どういう本なのか、少しご説明させてください。
絶望をすすめる本ではありません。
絶望からの立ち直り方について書いた本でもありません。
立ち直りの段階の前の「絶望の期間」の過ごし方について書いた本です。
人は、絶望したとき、なるべく早く立ち直ろうとします。
周囲もなるべく早く立ち直らせようとします。
とはいえ、日常的な軽い絶望でも、一晩は寝込んだりするでしょう。
周囲の人たちも、「今日はそっとしておいてやろう」と、励ましの言葉をかけるのさえひかえるでしょう。
一晩ですまず、何日か、かかることもあります。
さらに何週間もかかることもありますし、何ヶ月もかかることもあります。
ときには、何年ということも。
絶望した瞬間から立ち直りが始まるわけではなく、絶望したままの期間というのがあります。
この「絶望の期間」をどう過ごすかが、じつはとても大切なのです。
そのことについて書かせていただきました。
絶望の最中にある方、絶望している人にどう接したらいいのかと悩んでおられる方などに、少しでもご参考になれば幸いです。
また、できることなら、絶望する前に、読んでおいていただけると嬉しいです。地震の本は、地震が起きる前に読んでおいたほうがいいように。
(アマゾンの『絶望読書』のページより引用しております)

これよこれ! まもなく絶望が来るという予感の中、ことが起きる前に読んでおかなくては、と、早速キンドルで拝読しました。

『絶望読書』ーー文章滑らかで品格があり、ユーモアもあり、優しさも厳しさもあって、するすると読めちゃう。絶望が絶望であることには変わりはないのですが、こうも冷静に絶望を語られてしまうと、何か吹っ切れてくるものがあります。

いや、この書籍、そして頭木氏の素晴らしい点は、絶望という話もさることながら、ここで紹介される文学やエッセイのセレクトの秀逸さかもしれません。
頭木氏はご自身を「文学紹介者」と名乗ってらっしゃいます。紹介作品はアングルとしては「絶望」なのですが、絶望とは、生と死に向かい合ったときに生まれる感情でしょう。そういう大きな問題を真摯に見つめた作品は、たとえ喜劇であったとしても(頭木氏は落語への造詣も非常に深い)深遠であること、間違いなしです。
『絶望読書』でも、カフカをはじめ、太宰やドストエフスキー、そして私も大好きな山田太一など、多岐に渡る書籍が紹介されています。未読の本はすぐにでも読みたくなる。既に読んだことがある本でも、そういう解釈があったのか、とより深い理解へと誘われます。まるで一冊の本を読んでいるのに、そこに紹介されている作品をも読んでいるような、何とも豊かな時間を過ごしました。絶望されていない方にもぜひお薦め致します。

私の絶望は、というと、この『絶望読書』を読んだら、乗り越えられてしまいました。そもそもが仮面絶望だったのかもしれませんね。
絶望にまで寄り添ってくれる小説やエッセイ。当書で頭木氏が書かれているように、「人生に何か起きたときには、じつは本というのは命綱になってくれる存在」。そんな素晴らしい山を目の前にして、登らずにはいられない。登り切れなくとも、チャレンジしたい自分がいる。「ふん、だめでもいい、書き続けよう」と、決意が新たになりました。
物書きの良いところは、音を立てるわけでなく、お金がかかるわけでもないところ。もう書きたいことがないわ、となる日まで書かせて貰います!

ではまた、不定期になりますが、更新します。
引き続き、どうぞ宜しくお願い致します。

2021年2月1日月曜日

フランスのコロナ事情⑤ 感染した時……

夫が身体の変調を感じたのは、10日ほど前のこと。
「寒い」といってお風呂に浸かり、しばらくすると、「やっぱり寒い」と厚手のセーターを着込んだあの日、私の頭に「コロナ?」という三文字が浮かんだのでした。「検査受けて来たら?」と言ったのですが、翌日には寒気も消えたので、検査は受けず。
そんなことを一日置きにやり、日曜日も挟んだり、結局、最初の「寒い」発言から4日目に、夫は検査を受け、陽性と判明したのです。

今はもう回復の途中にあるので、どうぞご安心くださいませ。
今回の経験から、皆様に役立つことがあれば、また日仏の違いを知ることも何かの参考になるかと思い、以下記します。

フランスのPCR検査と抗原検査について
コロナの検査は、PCR検査と抗原検査( antigénique)の二種類があります。
(抗体検査(sérologique)というのもありますが、あれは、過去にそのウイルスに感染していたかを調べる検査なので、ちょっと別物)

・PCR検査については、こちらにも書きましたが、フランスでは、症状がある場合は病院や出張看護師が採取、無症状の場合に限りラボ(検査所)で採取して貰えます。処方箋あり&なしの両方のケースを経験していますが、健康保険証を提示したからなのか無料でした。が、「検査料及び診察料は病院や医師により異なる」と、在仏大使館のウエブサイトにあります。

・一方抗原検査は、一部薬局で対応して貰えるようになりました。こちらは、「処方箋なしで検査可能。健康保険証(carte vitale)の提示で検査料無料。健康保険証を所持していない旅行者であっても薬局で検査キットを購入すれば検査を受けられる」(前述大使館サイトより)そうです。

私も、火曜日に薬局で抗原検査をしましたが、陰性。子ども達には水曜日に抗原検査をさせてこちらも陰性でした。
この抗原検査は、信頼性が70%程度なので弊害もあると言われてますが、それでもないよりずっとマシです。夫もこのお陰ですぐに陽性がわかり、感染を最小限にできたと思います。
うちの場合、2キロ以内の距離に、知っているだけでも2箇所の薬局で抗原検査が受けられます。一件は予約が必要、もう一件は予約すら無用のウォークイン。私と子ども達のため、2回訪れましたが、どちらも並ばずにすぐに検査してくれ、結果は15分以内に判明しました。担当者は、学生さんのように若い方でしたが、丁寧に採取され、対応もバッチリでした。

私と子ども達は、その2日後に、PCR検査も受けさせられました。夫が家族医に連絡したところ、家族医が、「家族が陰性なのは、まだ感染して日が浅いからという可能性が高い。それに抗原検査よりPCRの方が精度高い。検査に関しては看護師を送る」というのでそうなりました。この看護師が実にいい加減な人だったので、(鼻腔片方だけからサンプル採取でしたが、PCRはそれでいいらしいです。でも下手というか、人の痛みに 不感はというか。衛生管理に関しても不安点一杯)うんざりしたのですが、それでも、家に来て検査してくれるという体制があることに安心しました。PCRも陰性でした。

学校に関するフランスのルールは、濃厚接触者の場合、陰性であっても自宅待機、感染者が陰性となった一週間後に再度陰性であることを確認できたら登校できることになっています。……ですので、当然、子ども達は現在家にいます。

神経質なまでに対策を取っていて、殆どテレワーク、出勤も車だった夫がコロナに感染……もうロシアン・ルーレット状態というのは大袈裟ではないと思いました。皆様が感染されないことを祈っておりますが、備えあれば憂いなし、微々たることですが記しておきます。

・まず、家族に感染者が出たときに、どうやって隔離するかを考えておくこと。うちの場合は、取り急ぎゲストルームに夫を寝かせたのですが、別の部屋に行って貰った方が隔離性が高かった、と、あとで気づきました。お手洗いやお風呂場との動線とかも含めて、事前に考えておいた方がいいと思います。

・重篤化したときに何処に電話すべきなのかを把握すること。今回は、夫の陽性を受けて、薬局から保健局に連絡がいったようで、早い時期に「緊急を要すときはこの番号へ」というショートメッセージが入りました。ただ、これがフランス全国的な対応なのかはわかりません。

・普段は運転をしない私ですが、一応、車のキーの在りか、救急病院への道筋を確認。

・幸い、食料の買い出しをしたばかりだったので助かりましたが、もしそうでなければ、インターネットで買い物をする必要もあったことでしょう。ご飯に関しても、私がいつ感染するかわからないので、大鍋でシチューを作り、冷蔵庫へ。子ども達にご飯の炊き方も確認。

・パラセタモール、フランスだとドリプランという薬になりますが、連日、そしてもし家族複数名が感染した場合は、消費量が高いので、多めにストックした方がいいと思います。

症状は、ケースバイケースでしょう。夫は、咳は殆どなし、熱も38.5度止まり、頭痛・腹痛・倦怠感が主な症状でした。食欲は減退していましたが、丸っきり食べられないことはなく、 味覚、 嗅覚あり、 耳が遠い気はするけど疲れているから?
「寒い」発言から十日経った今日は、ほぼいつも通りらしいとのこと。
ほっ。
私も子ども達も通常通りです。夫の陰性が確認できたら、私達ももう一度抗原検査を受けてきます。

ちなみに、夫の勤務先に関しては、もし無症状であれば、ずっとテレワークすることも可能でした。(昨年の初めは、たとえ無症状でも感染判明した社員には、仕事のメールすら送ってはいけないと通達されていたのです)
ですが、途中より体調が悪くなったので、家族医に診断書を書いてもらい、病欠扱いにしてもらったそうです。これで有休を使わずに済みました。明日から仕事もテレワークで復帰するそうです。
夫の会社は、感染したら最低14日は出勤しない、というルールを設けているので、夫はたとえ明日陰性がわかっても、あと一週間はテレワークとなります。

そんなところでしょうか。
感染されても、落ち着いて対応されますよう。

日本では検査受診もままならない地域があると聞いております。
ある医師は、ご自身で異常を感じられたので自主的に隔離されたそうです。(この方はずいぶんあとになって陽性反応が出たそうです)
ご自身で、「いつもと違うかも?」と感じられたら、勇気を持って対処されますよう。ご飯を作るときなどは自宅でもマスクする、ご飯は家族と同席せずに取る、別室で寝ることができない場合は、同室の方にマスクして寝てもらう(ご自身は酸素が大切なのでマスクしない方がいいような気がします)などなど、できることをされたらいいと思います。

とにかく皆様もStay safeでいらして下さいませ。 

2021年1月24日日曜日

読書日記*絶望とカルト



近年は、オウム関連の記事や電子書籍を読むことが増えました。

オウムが全盛だった80年代の終わりからサリン事件の95年というのは、私が大学から社会人へ移行した時期です。
サリン事件は社会人5年目のとき。でも実はこの事件のことが余り記憶にありません。気持ち悪いし、もう考えたくもない、と蓋をしたのだと思います。

それから月日が流れ、何年か前から、オウムのことを把握しておいた方がいいのでは、と思うようになりました。
これという引き金はないのです。
テロやトランプ氏や右傾化や拝金主義。直近では陰謀説とコロナ禍。人の心が不安定になっている。オウムが出てきたバブルの頃と不安定さとは違うけれど、何か薄ら寒い。そんな中、本能が、あの事件が繰り返されないようにしっかり理解しておくべきだよ、と私を促しているのでしょう。

コロナ禍による外出自粛は、人々の行動が見えないところが恐いです。昔と違って、今はTVではなくYoutuberですし。みんな何を見ているのでしょうね

信者に対する丁寧なレポートをされた村上春樹氏の「約束された場所でについては、以前ブログに書きました。他にもオウム関連の書籍は数冊ほど読みました。

ただ、どんなに読んでも、私には入信に至ったその心理がわからない、というのが、正直なところ。
元信者達は、生真面目でストイックで純粋な心を持っていた人もいれば、そこまで真面目に人生を考えていなかった人もいる。優秀な人もいれば、そうでもない人もいる。家庭がしっかりしていた人もいれば、そうでない人もいる。カルトに警戒心を抱いていたのに入信してしまった人もいる。

「ああ、入信する人っていうのは、こういうタイプの人なんだね。だったら、私も、うちの子ども達も大丈夫ね」と安心したいのですが、安心なんてできやません。入信した人の話を読むと、共感すること多々ですよ。危ない危ない。

でも、私は入信など考えもしなかった。どうして?何が違うの?

もっと明確な答えを求め、先日読んだのは、江川紹子氏の、『「カルト」はすぐ隣に』
江川氏は、オウム関連の書籍は何冊も出版されていますが、この『「カルト」は……」は、岩波のジュニア出版の本。若者を対象に書かれています。

大人向けの本を読んでもわからなかった答え、若い人向けならわかるかも。そして思春期のこどもを持つ親として、何か伝えられるものがあるかも、と思い読んでみました(息子達の日本語力では到底読めないので代読というわけです)。

結果から言うと、「入信しやすい人のタイプ」というのは特定できない、という、今までどの本でも書かれていたことを繰り返し言われたように感じます。ただ、元信者の手記が長文で挿入されていることや、江川氏の書き方もあって、私も、ようやくじわじわとですが、説得されつつあります。

みんな迷える子羊です。たとえがめちゃくちゃな気もしますが、「スリに遭わないタイプ」と思っていた私でも、ちょっと気が緩んでいた或る日、スリに遭ってしまったように、気を張っていても、或る日カルトに足を踏み入れてしまったりするかもしれない。それが人間なのでしょう。「私は大丈夫」と思っていても、するっと入ってしまう。
そのことを、この『「カルト」はすぐ隣に』は伝えたいのだと思います。

ではどうやって防御するか。幾つかアイデアが挙げられている中で、私は息子達に3つのことを伝えました。

・Study(自分で考える)ではなく、Learn(丸覚え)させようとする教えには警戒せよ。(ダライ・ラマのお言葉だそうです)
・「え、なんで?」と思ったら一度止まって考える。
・人任せにせず、自分で考える事を放棄しない。

一も二も三も、「考えよ」ということですね。
でも、考えるのに疲れてしまう時もあります。考え過ぎてしまって危険な精神状態のときは、考えることを棚上げした方がいいときも。
そんなときには、絶望読書という手があるんですよ。
その話もしたかったのですが、長くなりましたので、また別の機会にします。

2021年1月15日金曜日

十人十色でいいよね

 


この写真↑はお正月に義理の両親の別荘で撮ったものです。

今日はこれを見ながら、ふと、あの時一緒に過ごした二人の少女のことを思い出していました。
マリーとクロエ。
マリーは義理の姪、クロエはマリーのお友達です。
二人ともお誕生日が一緒でまもなく12歳になるとか。こちらの女の子は成熟が早いのですが、彼女達はプレ・ティーンというよりは少女っぽさが勝っていて、二人して別荘の中をかわいいネズミのように駆け回っていました。

マリーは、「女の子女の子」したタイプ。ブロンドの巻き毛にブルー・アイ、カチューシャは日替わりで、という絵に描いたようなマドモワゼル。仕草などから、自分が人に与える印象をしっかり把握しているのがわかります。性格は、お喋りだけど強い主張はなく、いつも従兄弟達に丸め込まれたり、邪険にされたり。それもあって、今回はクロエを田舎の別荘に招待した、とのことでした。

一方、クロエは、ピリッとスパイスが利いているタイプ。鉛筆のように細い身体をジーンズとスヌーピーのトレーナーに包み、ストロベリーブロンドのストレートヘアは無造作にゴムでまとめるだけ。美少女ではありません。 でも、小さくてよく輝くマロン色の瞳は、面白いことを逃さないぞ、と常に周りを観察しています。

私達夫婦が別荘に到着すると、クロエは、興味津々という顔で自らボンジュールしに前に出てきました。「私、いつか日本に行くのが夢なんです。日本語でボンジュールはどう言うのですか?」といきなり質問がスタートし、このあと、幾つの質問に答えたことでしょう。少なくとも、日本には香港はなく、広東風焼き飯は和食ではなく、東京は日本の首都だということはわかってくれたと思います。

画像1

滞在中、私がガレットデロワもどきを作っていると、ぐりとぐらならぬ、マリーとクロエがやって来て、「手伝ってもいい?」と聞きます。「もちろん」と応えると、「わあ!」と、それだけで顔を明るくさせて喜ぶ少女達。

クロエは好奇心一杯で、「それは何?」「なんでそうするの?」と質問も多く、「フェーブを二つ入れたら?」「上に模様描いたら?」と提案もある。

マリーが、シンクに投げ込んだボウルの、こびりついたチョコレート入りフランジパンを「舐めてもいい?」」と聞くので、「もちろん」と応えると、再び「わあ!」と二人して喜ぶ。かわいいことったら。

クロエはこのガレットが気に入ったようで、「レシピを教えてね」と大人びたことを言います。「うんうん、もちろん」と笑ったのですが、実は真剣だったようで、私達が去る間際に、紙とペンを持って、「ガレットのレシピを下さい!」と私をジッと見つめるではないですか。もちろん、教えましたとも。ついでに、ここにも記しておきましょう。

Galette des Rois (ガレットデロワ、東方の三賢者がイエス様の元に到着した、エピファニーに食べるお菓子です。
オーブンを180°にしっかり予熱炊きします。
・有塩バター 100g
・砂糖 100g
・全卵 2コ
・アーモンドプードル 100g
これを混ぜるとフランジパンとなります。ここに私はチョコレート200gを刻んで加えました。
円形のパイシートに、このチョコ入りフランジパンを広げ、サイコロ状に切った洋梨小1個を適当に散らし、フェーブも置いて、もう一枚の円形パイシートを被せます。端をしっかりと閉じ、中央にお箸でプスッと空気抜きの穴を開けます。さらに、上に焼いたときに照りが出るよう、溶き卵を塗り、オーブンでこんがり膨らむまで焼きます。

ベルサイユに帰る車中で、息子達は「クロエの方がマリーより気持ちよい女の子だった」と言ってましたっけ。私も、マリーには悪いけれど、同感です。すでに自我が確立しつつあるクロエと、自我はないけれど自意識だけはあるマリー。これは可愛い子の宿命かな?

と、ここまで考えて、私はどんな少女だったのだろう、と自分を思い返します。 

自我......ありませんでした。いつもぼーっとしていて、「ミキ、口閉じなさい!」としょっちゅう叱られていたっけ。
太めの小ブスだったので自意識もなかったですよ。自我もない分、外見に対するコンプレックスがあまりなかったのは幸いでしたが。
頭も悪く、努力もしないので成績も悪かった。末っ子気質の 悪い面というのでしょうか、甘えた考えを持っていて、依存的だったし、自慢できるようなことはないのにえばりん坊で、サボることばかり考えていて、クロエのように、未だ見ぬ国への好奇心もなく……
一言でいえば、絶望的な少女ですよ。将来性ゼロ。

そんな少女だった私がやがて受験します。徹夜します。失敗します。成功します。ギリギリ引っかかります。冷や汗ものです。
家庭の問題がために涙を流します。堪(こら)えます。傷つきます。立ち直ります。でも 引きずります。
恋にのぼせ、振られます。振ります。調子に乗ります。振られます。
結婚したいのに、出会いがありません。出会います。別れます。
仕事もします。能力が足りません。長けてきます。飽きます。転職するけれど能力が及びません。フィットしません。迷います。
現状に耐えられなくなり、渡英します、渡米します。
フランスへの好奇心なんてなかったのに、気づくとフランスにいます。
日本への郷愁は募るけれど、中々帰れません。

あの時、このぼけーっとした太っちょの少女が、こんな人生を歩むと誰が思ったことでしょう。
もし、あの時の自分に会うことができるのなら、ぎゅっと抱きしめてあげたい。そして忠言するのであれば、「眼を大きく開いて、これからの旅の景色をしっかり見ておきなさい」とだけ、伝えたい。
結局、そこですよね。どんな景色を見てきたか。それが私の宝物です。

今度マリーに会ったら、もっと話を聞いてあげようと思います。叔母さんにはそれしか出来ないけど。いつかクロエに会うことがあったら、質問にできるだけ応えてあげたいと思います。

そんなことを思った午後でした。
さて、フランスは明日より夕方6時以降の外出が禁止となりました。また生活リズムが微妙に変わります。頑張ります。
どうぞ皆様も Stay safe!

2021年1月8日金曜日

家事は主婦の仕事?

 


新春、おめでとうございます。写真は、2日の日の出刻の写真です。

私は、子ども達が田舎の別荘に行っていたので、のんびりと年を越しました。皆様のお正月も、ゆっくりできる数日であったことと願っております。

子ども達は、学校休みの度に、「おいでおいで」と田舎の別荘へ招れます。今回は、コロナのこともあり、子どもだけを送り込んで、私達夫婦は迎えがてら、一泊だけさせてもらいました。

コロナ禍のため、家政婦も来ないので別荘での賄いは、基本的に義母と義姉、私がいるときは私、となります。
別荘での普段の料理がシンプルなことはこちらにも書きました。義母達は、無理してまで手料理に拘らず、自分達がストレスフリーな気分でいられるように力配分をコントロールします。
来る日も来る日も台所に立たされ、ご飯を作らされると、鎖で繋がれているように感じる、という気持ちは、私もわかります。

ただ、義母や義姉の「家事はうんざりなのよぉ」というオーラは私のそれよりずっと強くて、時折、大人げなくないか?と思うことも。
バカンスの度に、義母、義姉から「嗚呼、もう料理はうんざり!」「嗚呼、片付けうんざり!」と耳にタコができるほど聞かされます。
私がやりますよ、と動くと、「ミキ、およしなさい。そんな凝った料理、そんな拭き掃除することありません」と止めが入ります。
料理人なり、毎日来てくれる家政婦なり、頼めればいいのですが、田舎ではそういう人材が足りないのです。

何故、義母達は家事をそこまで嫌がるのか。そして、何故、私はそうでないのか。掘り下げて考えると、義母や義姉は、「家事は家政婦の仕事だ」という認識があり、私は「家事は主婦の仕事だ」という認識があるからだ、と気づきます。
義母や義姉の考え方は、必ずしも上流階級特有のものではありません。フランスでは中流家庭であろうと家政婦やベビーシッターを雇います。また、これは「フランスは共働きが基本だから」、ということでもありません。
女性が働いていなくても、家政婦に来て貰っている家庭も多いのです。
子沢山で家が大きいから? 高収入だから?それもそうではないのですよ。ほんとに普通のサラリーマン家庭とか、子どもがいない人でも、あと、ささやかな収入で暮らしているような独身の女性でも、
「プロにやってもらった方がきれいになるから」、「私も息抜きしたいから」、「自分の時間を持ちたいから」といった理由で頼んでいるようです。
どれも、気持ちはわかるけれど、そこまで求めるんだ、とフランスで 暮らしはじめた頃は こっそり驚いていたものです。

一方で、フランス人家庭全てが家政婦を雇っているわけではなく、また、家事全般を家政婦に依存しているわけでもありません。家庭内の男女の家事・育児の分担をみると、統計では女性は家事の64%、育児の71%を請け負っているともあります(2010年数値)。
昔よりはマシ、そして恐らく日本よりはマシなのでしょうが、未だに女性の家事・育児への負担は大きいのです。

私はいいんですよ。
日本で家政婦さんなどとは縁のなく育っているので、当然のように家事をやってきました。家事は結構好きだし……

と、ここまで書いて、ふと考えます。
本当にそうなのかしら、と。
家事、しないで済むなら、しないよね?
料理やアイロンがけは好きだけど、あれも好きなときにするから好きであって、やりたくないのにやらなくてはいけないときは、「うーん、もう!」と目を三角にしているよね?

それで気づいたわけです。
私も、色々擦り込まれているなぁ、と。
日本では、掃除好き、料理好き、片付け上手、子どもの扱いが上手な「家庭的な女性」というのは、ポイントが高い。だから、自分もそうあろうと仕向け、気づくと、自分は家事が好きだと思い込んでいたのではないか、と思うのです。
義母や義姉の方が、「家事はうんざり」と、しっかり声を上げ、自分を大切にしていて立派です。
大人げない、などと思ったりして、ごめんなさい、と謝りたい気分です。

そんなことを思うのも、ワタクシめ、フランスに来てから、家で働くことが多かったし、信頼出来る家政婦さんを探すのも面倒だったので、一人でやって来ました。コロナ禍の外出制限中も、朗らかに(本当か)ご飯を作ってきた。

けどね、
ここに来て家事疲れを感じています。大掃除もしていないのに、手抜きばかりなのに、です。長年、実は「うんざり」していた部分が 積み上がり、溢れてきたのでしょう。

それで、コロナ禍が収まったら、家政婦さんを探そうと、心に決めました。週に2,3時間程度であれば、他を少し切り詰めれば家計にも響くほどのとではありませんし、
家政婦さんに、バスルームと床や窓の掃除をやってもらったら、私、もっと優しい妻、母になれると思うので、最終的には、家族みんなが得すると思うのです。

これはジョークではありません。
家事というものから女性を解放したら、日本女性の幸福度はかなり向上するのでは。男性に家事分担を促す声も聞きますが、自分が嫌なことを夫に求めるのって、日本の女性にはハードルが高そう。
それよりも、日本も、フランスのように家政婦を雇うことをスタンダードにしたら良いと思います。賃金は、もはや日仏の差は殆どないようですし、業者も色々あるようですよ。(政府もここに力入れたらいいのに)

家政婦の時給、日仏比較
フランスの家政婦の相場は、時給12~17ユーロ(円換算で約1500~2200円)とあります。
日本では幾らかというと、時給1800~2500円。フランスより300円ほど高いですが、物価の違いを考えると、ほぼ同水準と言えるのでは。

新年早々、熱くなってしまいました。
2021年、少しでも生きやすい世の中になるといいな、と思っています。
本年も、どうぞ宜しくお願い致します。
Stay safe!