2012年4月16日月曜日

人生の習慣

毎度の乱読日記です。


ある日、子猿の日本語補修校の図書館で物色しているとき、ふと手に取った「人生の習慣(ハビット)」By 大江健三郎。
前からこの書棚で目にしていた背表紙だけど……とパラパラみると、第一章が「信仰なき者の祈り」というタイトルです。これは私がちょっと前に探して見つけることが出来なかった我が母校での講演録でした。「本になってないのかも」と諦めていたから、こう何も期待していないときに偶然手に飛び込んできたことにびっくりです。
出逢いってこうなのよね。特に大切な出逢い達。夫、友人らとの出逢いも、期待していないときにやってきた。運命って面白いなぁと思います。自分でコントロールできない大きなうねりのようなもの?


さて、「人生のハビット」は、大江健三郎の1990年頃の講演録をまとめたものです。その一つが「信仰なき……」 
すごく良かった。
講演録はエッセー同様、思っていることを言葉にしているものですが、目の前の聴衆に語りかけるので、大江氏の「伝えたい」という気持もエッセーより強く感じられます。


自分は無宗教だが、子供の頃より神社・寺の前を通ればお辞儀せざるおえなかった、東京に出てきて教会を見てもその気持は変わらない


……ユーモラスなエピソードを混じえてこう語ってらっしゃいますが、とても謙虚な方なんだな、と思いました。


信仰を持つということは、神を信じる、そこは全ての答えがある。それら全てを信じる。自分はそれはできない。そうできたらいいな、と思いつつできない。


この世の中は混沌としているが、その混沌に「ある秩序」をつけて、我々の疑問はこれなんだ、と提示することが、芸術家の仕事であり、自分は小説を通してそうしている。答は出すことなどはできないが、質問を投げかけることが自分の仕事だと思う。これらの質問は答を、真理を求めているわけで、それは「祈り」と同質のものではないか、と思っている。


……これらは原文ではなく稚拙な私の読み取りです。


その他、長男さんが障害を持って生まれた際、放っておけば死、手術すれば障害者として一生を送る、どうするか、と決断を迫られたときのエピソードには胸が詰まります。そのとき、氏に訪れたエピファニー(光?答?真理?)に、私も何かヒントをいただいたように感じられました。


続いて読んだのは、「親鸞」By五木寛之。有名な作家ですが初めて読みました。
親鸞は日本史で知っているだけの人で特に興味はありませんでしたが、日本における仏教の本を読んだことなかったし、どれどれ、と手に取りました。


上下巻を読み終え思うのは、仏教もキリスト教も似ているなぁ、ということ。どちらも信じる人達は心の平安を求めている。そういえば、アラビア語の「こんにちわ、サラーム・アリコム」は「平安を貴方に」という意味らしいし、イスラム教もこの部分は一緒か。


それだけ、昔は不安な世の中だったのでしょうね。親鸞の時代は鴨川に死体が所狭しと浮かんでいるような飢餓・貧困の日々だったよう。日本など先進国にとっては遠い昔の地獄絵です。


「親鸞」読んでいて、今、宗教は不必要と思っている人は多いだろうな、と思いました。うっすらとした不安は持っていてもそれを認識する前に「大丈夫」と書き換えて「上書き保存」する小賢しさを持っている。
一方で、今ほど宗教が必要な時代もないのでは、とも思う。「大丈夫、大丈夫」と自己暗示をかけているけれど、「ほんとう?ほんとう?」と自問する声も大きくなって無視するのが難しくなっているのではないか。


そんなことを考えた週末の乱読でした。
どうぞよい一週間を!