2021年5月7日金曜日

自由とか。



いつになく肌寒い5月。先ほどから雨も降りだしました。そんなベルサイユの書斎より、最近、頭の中で切れ切れに考えていることを、忘れないうちに書きつけておきたいと思います。しばし、徒然なる私の考え事にお付き合いくださいませ。

まずは自由について。

最近頭の中で繰り返される映像があります。
それは、あるピアニストが演奏する姿です。
ピアノが好きな長男のお陰で、その動画に出会いました。

日本だけでなく世界を代表するピアニストですから、他にも動画は沢山あり、コンサートのビデオなど、以前にも、幾度か観たことはありました。細面の、品のあるお顔立ちに物静かな表情を浮かべて音楽を奏でる姿。美しくて理知的な印象がありました。

ですが、それらは随分昔のものだったようです。私は、自分が年取ったことを忘れがちなのですが、ついでに、昔から知っている人も年を取らせない、という癖があり、時折、こんな風に歳月の流れに足元を掬われることがあります。
私の中では永遠に40代だったピアニストも、その動画では、グレイヘア世代になられていました。ウィキペディアをみると1948年生まれとあります。2017年の録画ですのでピアニストは、古希一歩手前、というところでしょうか。
元々スレンダーだったお姿は、さらにほっそりとされ、化粧っ気はなく、服装も、森を散歩するときのようなカジュアルな装い。この動画は、音楽の講義風景を録画したものですので、語りも多く、初めて彼女が話す様子を観ました。明確で歯切れ良く、大勢の方を前にしても固まることなく自然体で話される姿が、堂々とされていて格好良いこと!
私の頭の中では、もっと寡黙でしとやかな人だろう、と想像していたので、「ふーん、ふうん、こういう方だったんだ」と、その意外な実像に惹きつけられていきました。

そして、いよいよ演奏。モーツアルトの協奏曲で、「ダダーン!」と始まります。
その時の彼女の身体。
全身が喜びに震えているように感じました。あの細い身体、両手から、どうやってあのようなパワフルな音楽が奏でられるのか。いや、無学なことは自覚していますので、音楽については口を噤みましょう。
それに、私、音楽どころではありませんでした。彼女の身体と手の動き、それだけで、私の小さな心はいっぱいいっぱい。鍵盤を叩く度に、ピアニストの身体が弦となっているかのように振動します。それを観る私は、うわーっ、うわーっ、と、それだけ。目尻さえも濡れてしまって、そんな自分に驚きました。

何といえば良いのでしょう。まるで、感受性という生き物が、自由に、そう、自由に自分を表現している。そんな印象を受けたのです。誰の評価も、誰の目も耳も気にせずに、制約一切なく、自分が感じたものを表現している。顔が、身体が、音を奏でるという至上の喜びを表している。
これが、自由というものなのか、と思いました。

コロナ禍で動き回る自由を奪われる日々の中、精神の自由を知るという、神様のいたずら。あれから、幾度となく、あの動画を見ています。時には音すら消して。音楽の動画だというのに、です。

その度に、考えます。ピアニストが持っている「自由」のことを。
きっとあの方は、少なくとも音楽に関しては、人に嫉妬するようなことは、ないでしょう。嫉妬心から解放された心ほど自由なものはない、と思いませんか。
きっと、認められたい、とか、そういうのもない気がする。
いや、ピアノを弾く喜び、それを人に伝えたいとか、教えたいといった願いはあるかもしれませんよ。でも、弾いているときは、ただただ嬉しくて、そのうち没頭し始めたときには、無心になっていると思います。
そうか、無心になっているとき、人は自由なのかな? 
自分の邪心や野心からも解き離れて、唯々もっと高いところに羽ばたいている、そんなイメージかな?

もちろん、自由の境地に達するために、ピアニストは、幼い時から死にものぐるいでピアノと向き合ってこられたのでしょう。そして、古希近くなって自由になった。ああ、なんて厳しい。なんて素晴らしい。

……と、勝手なシナリオを描いて、勝手に憧れています。
自由。
本当の自由。
自由な心。
ため息の午後……。

コーヒー淹れて一服することにします。
次は、幸せとか、そんなことについて書いてみたいと思っています。
ではまた!