2016年11月18日金曜日

フェースブック人間

先日訪れたノルマンディのボメニル城
庭園というか森が素晴らしかったです
皆様、ご無沙汰しております。日本もすっかり秋めいているようですが、お寒くないでしょうか。
先日、木枯らし一号のニュースが関東から届いた日、こちらベルサイユでも木枯らしが吹いていて、お、シンクロ! と嬉しく思っていました。
青空広がる今日ですが、気温はがくっと下がり、コートにマフラーが必要。 
木々もどんどん葉が落ち、秋より、初冬という感強しです。

こんなグレイで寒々とした昨今ですが、わが家は大丈夫。何しろ、こんなかわいい子猫がやってきたのですから。
フランスの犬猫の命名、年ごとにアルファベットが提案されているそう。、
今年はMの年らしく、シェルターでマエストロと名付けられました
この猫は、猫シェルターのようなところから引き取りました。

夏まで暮らしていた本牧では沢山の野良猫がいて、私たちもいつか飼うならシェルターから貰おうね、と決めていたのです。

ベルサイユに落ち着いて早3カ月経ち、「そろそろ飼おうか」と、最寄りのシェルターを探してみたら、なんとうちから歩いて5分ほどのところにありました。
子猿たちも大はしゃぎ
ではでは、と訪れたのは3,4週間ほど前のこと。
シェルター、普通の一軒家に、猫が2,30匹いたでしょうか。子猫のシーズンは終わっていたそうですが、偶然、私達が行ったときに届けられた子猫がいて、それが、このマエストロだったのです。

このシェルターでは、病気の有無をチェックし、ワクチン、避妊手術をして、あと耳に認識番号をタトゥーして引き渡してくれます。性格チェックもされていて、家猫に向かないと判断した場合は、養子に出さず生涯シェルターで飼うとのこと。

契約書には、「15日以内に、病気が見つかったり、性格的に問題が発覚したり、諸事情で飼えなくなった場合はこちらで再度引き取り、諸費用として頂いた150ユーロもお返しします」とある。

良心的な制度にリスペクト。
可哀想なTitiとTwix
小鳥と猫も共存できるよ、って誰が言った?
こうなる日を夢に、取りあえず小鳥さん達は別室へ移動
シェルターの職員(?)は無償ボランティアのようです。
皆さん猫が大好きで、それぞれの猫の性格を把握し愛情注いでいて素晴らしいこと!

でもどう見ても、みんなちょっと癖がある。

まず、ヘッドらしき初老のマダムは、前髪パツンと揃えた赤毛ボブカットにルージュがビシッと引かれ、ファッションも独特です。往年のソニアリキエル風。忙しそうにああだこうだと動いていらっしゃる割りには、事務手続きが進まない。ペンがない、と探し、用紙は「あったあった」と喜ぶも束の間、「ああ、これは違う違う」。漸く見つかると、今度はさっき見つけたペンが消えていて「C'est pas possible!」と大嘆き。

猫を見せてくれた、猫目の若いマドモアゼルは、キャットウーマンがごとく美しい。が、どう見ても社交性は低し。失礼なことは一切ないんだけど、もう自分の世界に住んでいる感じです。3度ほどシェルターに行きましたのですが、毎回、咳込んでて、それなのにたばこを吸っているし、

その他には猫のこと何でも知っていそうな内気なジャージ姿のオジサンとか、猫の世話に情熱かけている猛烈オバサンとか、みんな、一般社会ではちょっと浮いていそうな人達でした。

で、思ったのが
「私、こういう人達、好きだなぁ」
 ということ。


少し遡ること、この夏読んだ本に、人格障害に関するものがありました。
この本読んでいると「障害」とまで行かなくとも、人格障害の傾向がある人というのは、自分を含め、とてもとても多いと思いました。

ある意味、全ての人が軽度の差はあれ、人格障害の傾向を持っていると思うのです。
著者曰く、人格障害は、母親と関係が大きく影響しているそうです。父親の影響は二次的らしい。

母親との関係っ千差万別。その子にとって、近すぎず遠すぎずという関係を保ち続けながら、母子共に人生の山谷を旅するのはそう簡単ではない。
突き放すべきところで密になり過ぎたり、守ってあげるべきところでそうできないこと、あるでしょう。そういう経験が子供の人格形成に影響を与えるらしい。
そう考えると、人格的に無傷で普通っていうのは希有なことだと思うのです。

そしてさらに話がズレるようですが、フェースブック。
どんなもの何だろうと、深く考えずに「とりあえず」使い始めて何年でしょう。気軽に投稿できるし、遠くに住む友・家族の様子がわかるから楽しく使っています。

私の使い方……フェースブックは実際に知っている人達と繋がっているので、割と気をつけて書き込んでいます。皆さんそうなのかな?

フェースブックには、実社会同様に、フェースブック独特のマナーがあるように感じます。外国語では別のマナーがあるのでしょうが、日本語においては、日本人的な常識、気配りが求められてるように感じてしまうのです。

公共の場だから、楽しいこと、笑えること、他の方にも有意義だと思われることをシェアする。
不快な言葉・画像は載せない。
余り尖ったことを載せて驚かれるのも何だし、皆さんもお忙しいだろうから手短を心がけ、内輪ウケみたいなことは載せない、
などなど。

コメントも然り。公に残るものだから、ネガティブなことは書きたくない、軽く、明るいコメントを心がける。
これは私の面倒くさがり屋で臆病な性格ゆえですが、ディベートになりそうなことも、後で言質となりそうだから書かない。

で、気づくと、フェースブックには行儀がよく、健全で、ちょっとつまらない自分がいるのです。


また話が飛びますが、今年の芥川賞を受賞した「コンビニ人間」。

「コンビニ人間」の主人公は、幼い頃より自閉的で、コミュニケーションが変。自分が他の人と違っていることを自覚し、迷惑かけないように無口に生きているのですが、ふとバイトを始めたコンビニでは、マニュアル通りに動けば、浮くことなく、皆と同じように振る舞えることが分かり、これぞ我が生きる道! と徹底して働いているうちにコンビニ人間になってしまった。「ちょっと変だと排除される社会だから、こうしているかぎり私は安全」
……そういう話でした。
うんうん、日本ってそういうところある。
物語に対する感動などはなかったけれど、コンビニ人間は今の日本の一面を表している、と、その鋭い捉え方感心しました。

これと、先ほどのフェースブック現象をくっつけると、最近のフェースブック上の私はフェースブック人間していると言えます。
猫シェルターの人と比べると、何とも個性なく人間味に欠けるキャラクター。
でもこれは私の一部であって、本当の私は、もっと味がある(=変な)人です。

誰かと出会ったとき、また別れるときなど、「フェースブックやってる? じゃ、そこで!」と、まるでフェースブックに行けばその人がいる、その人のことがわかるような気がしていましたが、ここに来て、漸くフェースブックの限界が見えてきました。

さっきから脱線ばかりしていますが、ダメ押し。
2年間の日本滞在で唯一みた邦画は、「愛を積む人」。
横浜そごうの北海道フェアで、夫が、美瑛で作られた本格チーズを目の当たりに興奮し、恐ろしい勢いで買い込んだら、その御礼として、同村で撮られたこの映画の試写会のチケットをくれたのでした。マラソン帰りの旧友と観にいったっけな。

話は、妻に先立たれた高潔なところがある偏屈じいさんが、妻の遺言通りに、家の周りの石塀を積み上げる。その過程で不良などとも関わりができる。そして気づく。この石塀も、形のよい石だけで作られたら、もろくてつまらないものになる。へんてこな石、太っちょな石、尖った石、こういうのを組み合わせるからこそ、力強く、個性がある塀ができる。人の社会も同じじゃないか。もっと許容しながら生きよう、というもの。

変わった人に会ったり、自分が何か世間と足並みがずれちゃってるよなぁ、と感じるときなど、このメッセージが思い出され、「いいのいいの!」と励まされています。
実在しないサイバースペースのフェースブック人間より、石ころでいる方がいいわ!

毎度長くなって申し訳ないです。
木枯らしのびゅうびゅうの季節、どうぞご自愛を!







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