2013年9月23日月曜日

老人になったときの私

相変らず慌ただしい9月を過ごしています。

2日にパートが始まり、
翌3日に子猿たちの新学期スタート、
翌週より、日本語補習校とピアノのお稽古が始まり、
昨日より教会の日曜学校も再開、
今週より子猿たちのチェス教室(囲碁とか将棋じゃないところがおフランス)が始まり、
来週からは柔道教室も始まる。

毎週毎週何かが再開していて、ぜんまい仕掛けの毎日時計に1つずつぜんまいが加えられて行く……そんな感じしています。スムーズに回るように潤滑油をするのが母猿の役目ってとこでしょうか。

具体的には、規則正しい就寝・起床時間を奨励し、ピアノの練習と宿題の進捗状態を確認し、食事と清潔な環境を用意し、合間合間に「かわいいかわいい」と愛を伝えつつ……
当たり前のことだけれど忙しいわぁ。
今日の子猿ランチはピザとフルーツサラダでした
パイ皮のようなピザのなま生地が売られようになり、便利になりましたね。
こんな生活だと日中はブログゴコロもなかなか湧かないのですが、夜ベッドで本読んでいると、あぁこれについて書こう、あれについて書こうと思うことがあって、よし忘れないぞ、と思って寝るけれど、朝起きると、「何だっけ?」ってなる。
久しぶりに読んだ遠藤周作がよくって、何か書きたかったけれど忘れてしまったのでまた今度。

昨夜読んだ曽野綾子のは幸い覚えています。
戒老録」という、渋いタイトルの本です。
彼女が40歳のころに、老いた時の自分に向けて、「老いているからってこうするな、こうあるべき」と言ったことを書いてあって、曽野氏らしい手厳しい老いの指南書となっています。

曽野綾子、批判的な意見もよく聞きますが、若いころに彼女の親に関する本を読んで救われたことがあったし、何かとお世話になっている方(読者として)です。

さて「戒老録」。
ページを捲るほどに、歳取ると人は精進するもの、というイリュージョンが消されます。歳取ればとるほど人間の醜い部分が露呈していく、これが現実なんだ、って。
実際パリの老人たちの殆どは、意地悪だったり、利己主義だったりするもんね。メトロとかバスで人を立たせて自分は座る、あのシーンにはいつも目を伏せたくなる。
曽野氏の鋭い目が老人たちの驚くほどの未熟さ、残念さを伝えます。

成熟し魂を高めて一生を終える……普通に生きていればそんな風に死を迎えられるものなんだ、と信じたいからって、勝手に老年を美化していた自分に気づきました。

老人のあるべき姿を書いた章を読んでいて、ふと思い出したことがあります。
昔観た映画「タワーリング・インフェルノ」の一シーンです。
この映画は、高層ビルで火事が起き、その悲劇やら消防隊員の救出ドラマです。

1974年の映画とか。となると私はまだ7歳。スティーブ・マックィーンが好きな母に連れられて劇場に観に行ったわけですが、7歳の子供が見る映画じゃないよね、これ。(秘密だけど、この映画でポールニューマンに恋した私です)

ま、それは母らしいということでよいとして。

ボヤが広がり、最上階で開かれている落成パーティは大パニックです。
我も我もと皆エレベータに殺到します。
そして壊れかかっているエレベータにパンパンに人が乗って降りてくる。
途中重量オーバーで、エレベータより人が落ちだします。次は小さな子供が落ちる番。
すると裕福そうな猫を抱いているおばあさんが、愛猫を隣の人に託し、その子供に自分の場所を譲り、自分は自ら墜ちていくのです。

子供心に、「私もあんなこと、できるようになるかしら」
と思いました。

それからも折に触れ、「わたし、できるかしら」って思ったことがあるような。

できるかな、老人になった私。
そうでありたい。(もちろん、こんな場面には遭遇したくないけれど!)

〆に何か写真でも、と思うのですが、花好きの夫が仕事で忙しく、のんびり庭園に行っていない最近。
ベランダで撮ったなんていうんでしたっけ、このよく見る花。
ベゴニアじゃなくって、ブーゲンビリアじゃなくって……出てきません。
もう老人化が始まっているようです。
中身の成熟を急がなくちゃ。

みなさま、どうぞ良い一週間をお過ごしくださいね♪

2013年9月16日月曜日

母猿の想い出作り

ごぶさたしております。
気付くと前回のエントリーより10日余り経っていました。
ブログを書くのが私のペースメーカーというか、精神安定剤的な役割を持っていて、こうやって、バタバタして、書かずにいられるということはいいことなのか、よくないことなのか。

それもこれも、9月は日本の4月にあたる月。
学校の新学年が始まり、父母会だ、PTA総会だ、と学校行事があり、その他習い事も始まるので、そんな子猿まわりの用事に追われつつ、一方で、私も今月より仕事を再開しました。今度はフルタイムではなく、パートタイム契約です。出勤は週2回、あとは家で、毎日5時間前後のお仕事です。

そんなこんなで、先週までは、あっちに行ってはこっちでこれして、合間に家の片づけやら、ペンキ塗りやら、急に寒くなったもんだからパリのアパートには大抵ある地下の物置、カーヴに行ったらば、ものすごいことになってましてね、(夫が探し物をしてひっくり返したまま!むか~っ)せめて足を踏み入れられるように片づけたり、とやってたわけです。

その上、出勤しない日の月曜日は子猿たちを家に引き取ってお昼ご飯を食べさせています。
今日のメニューはオムライスもどき
フランスは、多くの学校で学校給食を取るか、家に引き取って食べさせるかを選択できるようになっています。公立の学校では、学食(カンティーン)のキャパの関係で、両親働いていないと、強制的に家に引き取らなくてはいけなくって、私も子猿たちを別の学校に通わせていた頃は、ほぼ毎日迎えに行ってました。あのころは、何かいつも時間に追われている感じ、「家ランチ」にはうんざりでした。

それがね、きっともうすぐ巣立っちゃうんだろうな、って思うからか、家でお昼させるのを楽しめるようになりました。もう、最後の「ママ聞いて聞いて、ママご飯何? ママ、ママ」時間ですよ。あと1,2年したら母猿は置き去りになるにちがいない。

今はまだ珍重されています。
のろけさせていただくと、月曜日は、子猿たち、朝から、「今日はカンティーンはないのね」とうれしそうに確認して校門をくぐります。
そして12時に迎えに行くと、笑顔で飛びついてくる。兄猿はもう体格もよくなっているから、そうされるとよろめいちゃう母猿。
ずっと仲良しのアヤネちゃんもいつも一緒。3人が手を繋いで前を歩いている姿を見ていると、ホンワカした気持ちになります。
その間も3人が多国語放送のように同時に話しかけてくれます。それにたいして、「へぇ、そうなんだ」とか「すごいね」とか、いい加減に合いの手入れる母猿。
そして肝心のお昼はごくごくシンプルなものですが、無言でもぐもぐと完食してくれたりすると、母猿感無量となるのです。

何でわざわざ引き取る、と人に聞かれれば、「学校給食よりはちゃんとした食事だと思うし(ほんとか)、友達も一緒だからさ、子猿たちにとっていい思い出になるでしょ」とエラそうに応えますが、その実は、母猿の想い出つくりのためだったりする。 

……もうすぐ少年時代、第一章が終わろうとしている我が家です。

2013年9月5日木曜日

化石のように

みなさま、お元気でらっしゃいますか?
フランスでは2カ月もの長い夏休みが終わり、子猿たちも無事に新学期を迎えています。
ちび猿は今年から小学生1年生にあたる、CP。兄猿は3年生にあたるCE2です。
日本で買ったリュックサックをランドセル代わりにしたのですが、身長120センチのちび猿が大人用のリュックを背負った後ろ姿は、まるでリュックが歩いているみたいです。それでも、大人用でないと入りきらないほどの教科書、ノートを持ち帰ってきますので、慣れてもらうしかありません。

私はというと、また本の世界に入っていました。
今週はこの本、

「化石」という井上靖の本です。1965年より新聞の連載小説として書かれたそう。

アマゾンには、「社用と保養を兼ねたヨーロッパ旅行で思いがけず十二指腸癌の病魔のため余命一年と宣告され、一切の希望を断たれた中年実業家。迫りくる死と向かい合うきびしい孤独を描く問題長編」とありますが、私には、この「厳しい」という言葉を外した「孤独」、普遍なる人間の孤独を書いたものだと思いました。「孤独」という言葉に修飾語はいらない。

映画にもなっていたようで、マルセラン夫人という、フランスの富豪と結婚している日本人女性を岸恵子さんが演じられたというのはイメージにピッタリ。見てみたいなぁ。佐分利信という役者さんも井上靖に似ていていい感じですし。

というのは、この話、私てっきり井上靖の体験から生まれた半ば私小説だと思っていたのです。それくらい、死を宣告された後の、揺れる気持ちや研ぎ澄まされていく精神がリアルに描かれているのです。ところが実際には、この小説を書かれた二十何年か後にガンになり闘病3年にしてこの世を去られたようですから、これは完全なるフィクションか……。すごいなぁ。

ある日は絶望に、ある日はふと見かけた夫人に希望を見る。またある日は見知らぬ老人の姿に涙が止まらなくなるほど感傷的になる。死んでもいいと思ったり、まだ生きたいんだ!と強く思ったり、という心の移り変わり。また「人間は死ぬときになって、『自分の人生は失敗だった』と認めたくないものなんだ」と「認める」ところなど、読んでいる側は、なんて人間って人間臭いんだろう、って人間というものに愛情愛着がぐわんぐわん湧いてきて、759ページもあっという間に読み終えてしまいます。

また「化石」と言うタイトルもいいな、と思いました。

実際にそうなのか、知りたいところですが、T会館……東京會舘のことでしょうか、のロビーは大理石で作られていてサンゴ礁の化石が混じっているそうです。そこにいると、サンゴの化石の林の中にいるような気になって気持ちが落ち着くという下りがあります。
太古からの流れの中で人は生きて死んで、もしかしたら新しい生命として生まれ変わっていく。そういう時の流れの中に今死にゆく自分がいるというのを想像してみたら、確かに雄大な気持ちで死を受け止められるような気がしました。

もう一つ、自分の備忘録のためにも「いい」と思った文章を書き記します

「その女性の身近いところに自分を置くことだけで、永遠なものに触れ、充実した安息感を覚え、満ち足り、そしてそこに迫っている死さえ、たいして怖くなくなるのだ。愛というものは、本当はこういうものではないのか。」

読んでいるだけで、こちらにも安息感が伝わって来て、いいな、と思ったのです。

さてさて、我が家のテラスにて、またテッセンが咲きました。5月に満開したのが、8月に一輪、そして今日一輪気まぐれに花ひらいた。

オマケよ、って言ってるみたいじゃない?
なんだかうれしいものです。
どうぞ良い日、良い週末をお迎えください♪