2020年12月31日木曜日

母親のあるべき姿とは

 



クリスマスを過ぎてから、読書三昧の日々を過ごしています。

今年は書く方に力を入れていましたが、一年という区切りが訪れる今、一休みするのが正しいように思え、書きかけのものをセーブして一旦閉じました。
そして手を伸ばしたのは、お気に入りの小説。
あらすじは全部知っているのに、
新しく購入した本もあるというのに、です。
本って、読む度に発見がありませんか。それはきっと、以前と違うところに心のギアに入っているからなのでしょうね。

久々の読書は、太めのストローで美味しいジュースを吸い上げるときのように、きゅーっと、頭に、心に言葉がしみ込んでいきます。身体が求めていた、という感じです。

今日もお昼のあと、肘掛け椅子に背を委ね、片手にコーヒーカップ、もう片手で膝の上に本を開きます。

ページは主人公の幼き頃を回想するシーン。学校から帰ってくると、おばあちゃんにおやつをねだる、という下りに、ふと、私も、子どもの頃のある日が蘇ります。

あれは小学校三年生の時だったでしょうか。学校帰りに、近所の貴美ちゃんのところに遊びに行きました。
貴美ちゃんのお母様は珍しく留守にされているようで、テーブルにはおやつが準備されています。木目調のボウルに、手作りのアイスボックスクッキーがこんもり、格子模様のと、渦巻き模様。まるで料理の本の写真そのものの丁寧な出来上がりです。その上には、チューリップ型に切り取られたピンクの折り紙があり、「貴美ちゃん、お帰りなさい。ごめんね、今日は夕方まで留守番よろしくね」というメッセージが。

それをみたときの衝撃。
あの日、私は「将来、こういうお母さんになりたい!」と、強烈に願ったのでした。

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わが家は、このチューリップ事件の1、2年前まで、イギリスとアメリカで8年ほど海外で過ごしました。兄・姉がまだ幼児の頃に渡米し、私は海外で産まれました。要は、母は、海外で子育てというものを学んだような人なのです。
なので、母は海外流子育てに感化されていて、日本に帰国してからも、洋風というか、合理的というか、大雑把というか、そういう育て方をしました。

生活習慣も、当時、母は仕事はしていませんでしたが、諸々のアクティビティで忙しく、私が学校から帰ってくるときには留守にしていることが殆どでした。そのことを「ごめんね」と、罪悪感持っていた様子はありません。

また、おやつが用意されていたこともありません。お腹が空いたら、自分で適当に棚を探して食べます。ましてやチューリップ型に切り抜いたメモに、用件もないのに「お帰りなさい」というメッセージを残されているようなことはありませんでした。寂しいときは、遊びに行ったりテレビ見たりしていました。(本当は勉強するか本でも読むべきだったのでしょうが)

母は、料理が嫌いというわけではないのです。クッキーやケーキも作ってくれることもありました。ただ貴美ちゃんのお母様のようにぐるぐる巻きや格子模様のクッキーを試みることはしません。クッキーと言えばスプーンで掬ってドロップして焼くか、天板に敷き詰めて焼き上がったらナイフで切る、といったタイプでした。

帰国してしばらくすると、私も周りの友達と同じでありたい、と思うようになります。日本的な環境には、同化圧力というのがあるのでしょう。服装や髪型といった見た目もそうですが、生活自体もみんなと同じでありたかった。十分凡庸だったのに、普通でありたい、と切に願ったのです。

そのためには、まず母に家に居てもらいたかった。「昨日はママと一緒にクッキー焼いたの」と私も友達にさりげなく言ってみたい。いかにも「普通の幸せ」っぽいじゃないですか。その時に焼くのは、もちろん、丁寧に作ったアイスボックス・クッキーです。

お弁当も、ピーナツバターのサンドウィッチかお握りだけ、デザートは日本の大きな皮付きの林檎一つドーン、ではなく、おかずの種類も色々で、林檎もちょっとになっちゃうけれどウサギに切ったのがいい。
家での食事も、「ミキちゃんスパゲティ好きでしょ?」とそれだけにするのではなく、ほかに色々入ったサラダがあって、出来合いの、粉を溶いただけのでもいいから小さなカップにポタージュスープもあって欲しい。焼き魚のときは、小鉢が幾つかあって、好きではないけれど漬け物もあって、味噌汁もあって、そういう細々したのがいい。
だって、テレビ観ているとそうだもの、友達の家に行くとそうだもの。

周りからのすり込みで、「あるべき母の姿、あるべき家庭の情景」というのを作りあげてしまっていたわけです。母とは何ぞや、家族とは何ぞや、と立ち止まって考えることなく、イメージ先行の、浅薄な「母親像」です。

思春期は、そのイメージに嵌まらない母に反発ばかりしていました。よくある、母が娘にこうあって欲しい、というやつの逆ですね。

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そんなことをひとしきり思い出した後は、嫌でも今の自分の母親ぶりを振り返ることになります。これはもう失笑するしかありません。

定職を持たない身ですが、子ども達が下校時に留守にしていても、罪悪感はありません。ママにもママの生活リズム・交友関係があるのだから、当然でしょう?という姿勢です。

食事、うちは常に一品料理です。
フランス料理はコース風に頂くので豪華なイメージですが、その実は、メイン以外は、フロマージュやシャルキュルトリ(サラミとかパテといった加工肉料理)など、出来合いのものが殆ど。

ここで、フランスらしく「夫も料理してくれますし」、と言えたら良いのですが、夫は料理の「り」の字もわかっていないような人なので、私が担当です。ただ「お前がやって当然」という考えはありません。どんな簡単な料理でも感謝の言葉をもらっています。

そもそもフランスの普段の食生活はシンプル。よって求められているハードルも低く、毎日の食事づくりは気楽なのです。ご飯を炊いただけでも「やったー!」ってなもので、小鉢数種に漬け物、その上味噌汁など出した日には、「トゥーマッチだよ、全部食べられない」といわれかねません。

お菓子も、買いに行くより楽だから、という理由で、週に一二度何かを焼いていますが、それも本当にシンプルなものばかり。デコレーションなんて、数えるほどしかやったこともありません。
クッキーに至っては型を抜いたことも、格子を組んだこともなく、いつも岩のようにごつごつしたドロップ型クッキーです。

ちなみに、年の瀬を迎えていますが、海外にはそういう慣習がないことをいいことに、大掃除もせず、お節料理もなし。

それでも、自分は結構いい母親だと思っています。図々しいでしょう?
お腹を空かせることなく、寒い思いをさせることなく、やりたいと言ったことは取り敢えずやらせてあげているんだから、OKでしょう、という。

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今思うと、なんで子どもの頃(~若い頃まで)はあんなに「あるべき母親像」に拘ってしまったのか、ほんとうに残念です。
母を責める必要もなかったですし、私自身も、肩身の狭い思いをする必要はなかった。遠足のとき「崩れないように」と、母がミネラル麦茶の空き箱に詰めてくれたゆで卵やお握りを、恥ずかしそうに食べる必要もなかったのです。美味しかった、と素直に満足し、母に伝えればよかった。

別の言い方をすれば、もっと自由に生きていたらよかったのです。
自分の物差しで、ママのこういうところ好き、嫌い、と判断したらよかった。
自ら、自分を、そして母を、型にはめて、はみ出さないようにしていた。はみ出ないで、と懇願していた。
嗚呼、なんて無駄なストレス、そして残念なことでしょう。

今年は、出来合いのポテトサラダや冷凍餃子を食卓に乗せる主婦を失格者として批判するSNSがあったと聞いています。
これは極端に古い感性の持ち主による発言だと信じていますが、これが話題になってしまうあたり、まだまだ擦り込み活動が盛んなんだな、と憂っています。

若い皆さん、何かに漠然と憧れるとき、否定したくなったとき、一瞬立ち止まって、その根源を見つめてください。「それってどういうことなのだろう」とまずは考えてください。
私のように擦り込まれないでね。自分に鎖をかけないでね。
自由な心を大切にしてね。

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長くなりました。
明日は大晦日。色々あった2020年が間もなく幕を閉じようとしています。今年も読んで下さって有り難うございます。来年はもっと沢山書きたいな、と思っています。お付き合いのほど、どうぞ宜しくお願い致します。
皆様のますますのご健勝を祈りつつ。

ドメストル美紀

2020年11月30日月曜日

マイ・ステイトメント

薄曇りのベルサイユ便り、しばらくぶりの更新となります。

もっと頻繁に書きたいのですが、頭の中が忙しくて、note活動に辿りつけずにおりました。
でも、ここで一旦、手を止めて、「今、思っていること」、を記すことにします。

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最近、思うのは、「女性っていいなぁ」ということ。
このところ、そんな女性達のストーリーを書いているから、より一層そう思うのかも。

この↓「翼シリーズ」にまた手を入れているのです。愛らしくて、でも優秀なるKさんや、私の駄作に目を通して下さる方々からのコメントのお陰で、すごく良い小説になってきました。

女性って、複雑で面倒くさいところもある。頭でっかちで、プライドが高くって、そのくせ、遠慮しちゃって、損しちゃって。その一方で計算高くって、抜け目なくって、生存力あって、でも、か弱くって、壊れやすくって。
かと思うと、そんな全てを包み込むような大きさがあって、優しくって、底力があって、英知に飛んでいて。なんといっても、可愛いし、綺麗だし。あ、でも時には恐ろしくって醜い顔もみせるか……。

そんな女性達について、もっともっと書きたい。もっともっと、伝える力を身につけたい。
押しつけることなく、女性を力づけるようなものを書けたらな、と願っています。

若い頃に読んだミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の中に、女王が「時間はかかるだけかかるものよ」と、ようやく自分の過ちに気づいたバスチアンに諭すという下りがあります。遠回りは無駄ではない、と慰められる場面です。
私も、十年余り書いてきて、ようやく、何を書きたかったのかが見えてきた感あり。遠回りしているけれど、私には必要だった道程なのでしょう。

視界がクリアになってきた今、何かいいものが書けそうな予感にわくわくしています。
そんな My statement 。

読んで下さってありがとう。応援して下さってありがとう。

頑張ります! 

2020年10月30日金曜日

フランスの秋 パット・ドゥ・フリュイの作り方

 


サルト地方の田舎の家よりボンジュール!

子猿たちの学校が秋のバカンスに入ったので、週末からこちらに来ております。バカンスって、あれ、また?と思われた方、ええ、そうなんです。フランスでは6週置きに2週間のバカンス(夏は2ヶ月+)があるのですよ。親は忙しいったらありゃしません。

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今回の私のミッションは、花梨(仏語Coing)の加工です。
花梨、日本でもたまに店頭で見かけましたが、どのようにして召し上がるのでしょう。私が初めて手にしたのは、フランスでのことでした。義理両親の田舎の庭園でたくさん採れるのです。
フランスでは、ジュレにしたり、パット・ドゥ・フリュイというお菓子にします。

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花梨はしっかり熟したものを使わないと、結構な渋みがあります。こちらは、3週間前に、義父が収穫し、私が来るまでカーブにて温存していたものです。5年前までは義母が、昨年までは義父が、自ら調理していたのですが、ついに私に譲られてしまいました。
というのも、花梨の加工は時間がかかるのですよ。

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この大きな蒸し器を使って、花梨のジュースを抽出しジュレを作ります。
そして残った身の部分で、パット・ドゥ・フリュイを作るのです。
この蒸し器、一番下は、お湯を張るところです。
二段目は、下の写真のようになっています。真ん中の穴から蒸気が上がり、お堀のようなところにジュースが溜まっていく仕組みとなっています。

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その上の段は、下のようになっています。

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ここに乱切りにした花梨を入れて蒸すこと一時間あまり。種も一緒に蒸し、天然のペクチンが下の段に滴るようにします。

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これで2キロほど。今回は4キロちょっと在ったので、2回に分けて蒸しました。

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4キロ余りの花梨から取れたジュースは1.5リットル。
ジュレは、ここに同量の砂糖とペクチン少量を入れ、ジャムを作るときのように、ぐつぐつ煮立て、沸騰したら5~8分。

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ジュレが出来ました。ペクチンの量が多すぎたみたいで、ちょっと片めなのが残念。瓶の下部分に隙間があるのは、瓶に熱々のジュレを入れ蓋をしたら、すぐ逆さまにしてジュレが凝固させたからです。このジュレも、いずれ重力で下に行き、ジュレと瓶の蓋の間の隙間は真空に近くなる、という仕掛けです。これで瓶内を真空にさせてカビの発生を防ぎます。
ジュレは薄いトーストに、ジャムのように塗っていただきます。

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さて、パット・ドゥ・フリュイ。
ウィキペディアによると、フランスの中央山麓地帯発祥のお菓子とのこと。こうやって保存し、冬季もフルーツが食べられるようにしたのでしょう。
フランスでは、パット・ドゥ・フリュイはチョコレートと並ぶ人気もの。お値段もチョコレートに近いです。食後にエスプレッソとともに、軽くつまむ、そんなお菓子です。

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上の写真は、先ほどの花梨の、蒸した果肉の部分を裏ごしし、砂糖とペクチン(こちらはかなり多め)を加えて煮て、型に流し込みます。ペクチンの効果ですぐに固まります。これは、500gの果肉、砂糖同量、ペクチン80gで作りました。本来のレシピでは、砂糖、ペクチン共にもう少し多めです。
写真の、なだらかでない部分は、鍋にこびりついた部分です。勿体ないから加えましたが、すでに固まっていたので、馴染むことなく凸凹。大ざっぱな私は気にしません!

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これをあら熱取れ、しばらく放置し乾かしてから、切って、粗目のグラニュー糖にまぶして出来上がり。

ジュレも、パット・ドゥ・フリュイも、薔薇のような芳香がうっすら、酸味も程よくて、エレガントな美味しさです。

この抽出型蒸し器がなくとも、花梨を薄く銀杏型に切って水をひたひたになる程度にかぶせ、ゆでたものでも十分美味しく出来ます。
ゆであがったら、果肉とゆで汁を分け、ゆで汁は煮詰めて水分を若干飛ばしてから、上記のようにジュレにし、果肉の部分で同じようにパット・ドゥ・フリュイにすればOKです。
花梨は、のど飴もあるくらいですから、喉にも良いはず。
注意!花梨は、黄色が少し濃くなったな、というくらいまで熟させてくださいね。そうでないと、渋みがあります。

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素敵な秋を~


2020年10月4日日曜日

フランスのコロナ事情③ PCR検査を受けました

秋深まるベルサイユよりボンジュール!

この一週間、見事に雨降りの毎日でした。
気温は10~15℃。陽もぐんぐん短くなっていて、朝8時頃まで暗いのです。登校・通勤にはつらい季節がやって来ました。

……ですが、わが家はみんな朝寝坊。学校にも行かず、会社にも行かず、子供達は9時過ぎまで寝ていました。
なぜって? 実は、今週わが家はロックダウンしていたのです。

兄猿の鼻風邪に気づいたのが金曜日のこと。兄猿の場合、鼻から始まることが多いので、ただの風邪だと思っていました。
が、ふと夫がコロナ関連のサイトを調べたら、若い人の場合は、鼻から始まることが多いんですって。
そこで取り敢えず、わが家はロックダウンしたのです。

そこから始まった私と兄猿の「PCR検査を巡る旅」。
フランスは誰でも簡単にPCR検査を無料で受けられると聞いていたのですが、いやいや、フランスでそんなにスムーズに事が運ぶはずはなく。
雨に打たれ、非情に晒され(はい、大げさです)、そんなレポートです。

火曜日……
夫はテレワークに、ちび猿も学校は休みました。兄猿は自室で一人ご飯の刑です。
教育省のコロナ対策サイトを見ると、まず医師にコンタクトして判断を仰ぐとあります。、家族医に電話すると、①確かに疑わしい。②診療所に兄猿を連れて来るな ③PCR検査の処方箋を書くから取りに来なさい、と。
でもこの家族医は夕方からしか診療所に来ない。「処方箋なくても、検査受けられますか?」と聞くも、答えはうやむや。早く検査したかったのですが、無駄足踏むのも嫌なので、素直に処方箋を待ちました。
ここですでに一日ロスしました。
水曜日……
PCR検査、ラボ(検査所)で受けるか、病院に行くか。
病院に行くとさらに病菌を貰いそうだからラボかな、とネットで調べると、症状がある人はラボでは受け付けない、とある。では病院か、と思って病院サイトに行くと、次回のアポは一ヶ月先、とあります。
それでも兄猿と病院に赴くことに。フランスは、決まりはどうあれ実際に足を運び交渉すると何とかなる時もある国なのです。でも結果は同じでした。
帰りにラボに寄ると、ドアに太字で「症状ある方は一歩も踏み入れてはダメ」と貼り紙されています。
兄猿はもううんざり顔。「今週はテストが5つもあったのに......遠足もあったのに……」
昨日は学校休めてウキウキだったちび猿も、友達を家に呼ぶことも出来ないし、兄猿とも遊べない「このコロ休はつまらない」とぼやきます。
木曜日……
咳も治まったので、兄猿といざラボへ。数人しか並んでいないのでラッキー!と思ったのですが、このラボは抗体検査しかしていないそう。家を出る前にしっかり調べようよ母、と反省しつつ、さらに2キロほど離れたPCR専門のラボに向かいます。
この間、雨傘の下、兄猿は嘆きます。
「なんだよこれ。もうヤダよ。検査しないと学校にいけない。でも病院だと一ヶ月待ち。誰が一ヶ月先まで待つって言うんだよ。ラボはラボで、症状がなければ調べるって本末転倒じゃないか。たとえコロナだっとしても、もう消えているよ、意味ないよ。ボク元気だもん。PCR検査、ボクの担任は4時間待ったって言ってた。もし2時間以上待たされるなら、ぼく帰るから。学校には、コロナじゃなかったって言えばいんだから」
兄猿の歎きを聞いて、少しほっとしました。兄猿は、余り文句言わない子、というか、「何ごともポジティブ・シンキングの21世紀少年」なので、この状況をどう消化しているんだろう、と気になっていました。
「あなたは何も悪くないのに本当に不運だと思う。同情しているよ。でもしょうがないことってあるのよ。知らずにコロナ菌持っていて、移しちゃったりしたら、そっちの方がやりきれないでしょ」
というと、兄猿は「ふぅー」とため息を漏らして、やり場のない怒りを堪えていました。

やっとラボに到着。そちらは10人ほど並んでいて、中には顔見知りの子もいて、うちの子だけじゃないことに何故か慰められるバカ母。
1時間ちょっと外で待ち(雨が冷たかった!)、検査して貰いました。検査は18~24時間で出る、とのこと。ラボの受付の方がとっても感じ良くて救われました。

前日は病院→ラボ→家、この日はラボ①→ラボ②、と計10キロ近く行脚したので帰りは贅沢(子供達には「バスは贅沢」と言っているので)してバスに。
道中、兄猿が達成感一杯の顔つきをするので笑っちゃいました。思わず私も、「陽性だったら」ときのことは考えず今は「長かったPCRまでの道」を終えたことを喜ぶことにしました。
金曜日……夕方にラボに電話すると、その場で陰性だと教えてくれました。

以上、長々と記しましたが、いかが思われますか。
地域の病院の状況によるのでしょうが、
症状なくなって初めて検査を受けられるという実状。
たとえコロナに感染していたとしても菌が察知されないケースも多いのでは。

また、この時間のロス! うちのケースで言えば、もし、家族医を挟まなくてよかったのなら、そして病院が受けてくれたのなら火曜日には検査できました。それが木曜日まで待たされた。たった二日の違いと思われるかもしれませんが、こういう小さなことが、感染の原因になっていると思うのです。
せっかちなフランス人は、コロナではないかもしれない子供を自宅待機させるのが嫌がることでしょう。風邪の症状が治まったなら、「PCRなんて受ける必要ないわね」と、「ただの風邪でした」と言って学校に行かせる人も多い気がします。

ちなみに、夫の会社のルール(恐らく多くのフランスの会社も同じ)では、陽性と出た人と濃厚接触していた場合は自宅隔離せよ。疑わしい期間に関しては出社してもよいのです。これも変ではないですか。

結論としては、怪しいと思ったらすぐに検査できる体制でないとダメだと思いました。
フランスではそれが出来ていると勘違いしていたので、そうではない実状を知ってガッカリしました。
一方、検査結果は本当に2日以内に出たので、それは公言通りで「よしよし」、でももっと早く分かって欲しいとも思う。
誰もがリトマス試験紙のように、検査できて結果もすぐ分かるようになったら、感染もかなり少なくできるでしょうね。

昨日のフランスの一日の感染者数は、1万3千人弱。PCRを巡る旅を経た今、本当の人数は、これよりずっと多いのだと推しています。

どうぞ皆様、Stay Safeされますように!

2020年9月23日水曜日

翼をひらくとき


つばさ初版

 初めて小説を書いたのは、今から11年前のことです。

読書が好きで、中でも小説が好き。ずっと読む側でしたが、夫が小説を書くこともあり、あるとき、私も書いてみようかしら、と思い立ち書いてみた、それが、この「翼をひらくとき」の第三話「シャルトルへ」です。

こんな風に言うと、「まあ、そういう書籍があるのね」と思われるかもしれません。いえいえ、上の写真の通り、手作りの小冊子があるばかり。

11年前に書いたときは、タイトルは「アラフォー・スチュワーデス物語」。実にライトに命名しましたっけ。
というのは、この短編集は、アラウンド30~50代のキャビンアテンダント達がヒロインなのです。七人のCAさんが主人公の、七話の短編集。各ストーリー、彼女達がターニングポイントに立ち、舵取りして進んでいく、そんな心のジャーニーを書いています。

初めての小説でしたが思いのほかサラサラと書き上げました。自分に文学的な感性や想像力が足りないということは哀しいほどに分かっている。だから気負いもなくて、友達に「職場にこういう人がいてさ、」と話しているような気楽さで書いたのです。
初めに「シャルトルへ」、その次は「ウィーンにて」、続いてロスが舞台の「風ニナリタイ」、と思いつくままに書くこと全7話。

こうして初めて書いた小説、少し経った頃に再度読んでみたら、もう唖然。そして自分の力量不足に愕然、でしたよ。
でも、それ以上に、ページの中のヒロイン達に「ごめんね、酷いよね」という申し訳なさを感じてしまって、手直し……というか書き直しです。

例えば「シャルトルへ」の早紀子。自分にも他人にも厳しいキツい性格と言う設定なのに矛盾がたくさん。
「早紀子はこういうときに、こういう笑い方しないよね」
「いや、待てよ。早紀子はそういう考え方しないか」
……こんな風に、早紀子の人格に入り込んでああでもない、こうでもない、と筆を入れまくり。

このように書き直すことが、この11年の間に幾度もありました。
初めて書いたときは42歳。
感動の味は知っている。涙の味も知っている。孤独だって覗いてしまったもの、知っていますとも。……と、そんな自信を持って書いたけれど Mais non!
書き直す度に、「分かっているつもりで分かってなかった、見えているつもりだったけど見えてなかった」と気づくことが多いこと! 

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さて昨今。
空の旅がままならなくなってしまいましたね。
今までは自由に旅のプランを立てられたのに、それを奪われてしまって何か悔しいな、と思っていると、
「でもさ、心の自由は自分のものよ。脳内ジャーニーはできるじゃない」
という声が。

早紀子達の声でした。
久しぶりに会う「早紀子」、前よりもっと深い悲しみを抱えていました。
「依子」は前より疲れていました。「ゆき恵」は崖っぷちにさらされていました。「薫」は、「マリエ」は……。
私も年を重ね、ヒロイン達の心のひだの一つ一つに入っていける、そういうタクティクスを少しは会得したのでしょうか。前回書き直したときより、踏み込んだ描写ができたような気がしています。
(ーーなんてね。本当のところは、忙しいのに私の悪文を読み込み批評してくれる友人らのコメントを反映したからです。Special thanks to 小雪!)

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この度はパリでワインサロンを主宰されている友人が、生徒さん向けに貸し出し文庫を作られる、と言うので、図々しく、早紀子達のストーリーを置かせて頂くことに。
タイトルも、今度は真面目に考えて、「翼をひらくとき」にしました。
せっせとプリントアウトして、製本する作業も楽しかった!
手に取って頂けるといいな。そしてコメントを頂けるといいな。厳しくても大丈夫。人間日々精進ですもの。

きっとまた数年後には、早紀子や依子達と再会し、ページの中の彼女らから、「ねえ、ここ辻褄合ってないと思うよ」「ここの描写、不自然じゃない?」などと厳しいことを言われるのでしょう。

いつの日か、本当に「翼をひらくとき」が来て書籍となり、より多くの方に読んで頂ける日が来るといいな。
……そんな夢を見ています。

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こちらの書籍も、書店で見かけたら手に取ってみて下さいませ。

2020年9月11日金曜日

思い出に寄せて


 

その昔、ニューヨークで暮らしていたことがありました。

新卒以来働いていた全日空を退職し、ニューヨークに姉がいたので、渡米したのです。無計画で迷えるアラサーだった私。流れで4年ほどミッドタウンで仕事もしました。

最初は邦銀、その後米系の投資銀行部門へ移りました。この仕事運に喜んでいたのは束の間のこと。この世界では、私の日本の学歴や職歴は全く役立たないことを痛感しました。勉強嫌いなのですが、このままではマズい、と考え、MBA留学することに。
このように流されるままに、人生のコマを進めていますが、MBA留学が決まるまでも山あり谷ありでした。ようやくフランスにある、INSEADという経営大学から合格通知が来てからも留学費用を貯めるべく、ギリギリまで働いていました。2000年の夏のことです。

そんなときに、高校時代の同級生のスミさんがニューヨークに転勤で来ていることを知りました。たぶん、盟友あっこちゃんが繋いでくれたのだと思います。もうそのあたりは覚えていません。

私の高校はごく普通の都立高です。少子化前の世代ですので、各クラス40名はいたと思う。各学年8組までありましたから、一学年320名+。それでも、一年も過ぎると、学年の男子女子の名前と顔は一致できたのは若さゆえ、でしょうか。
スミさんのことは初年度から知っていました。鉛筆のように細く、ボタンダウンのシャツが良く似合う男子でした。国立校から来ただけあって、如何にも優秀そう。このように存在は目を引くのですが、穏やかで物静かな雰囲気で、ずっと好感持っていました。
でも、3年間クラスが一緒になることがなかったので、言葉を交わす機会もなく卒業しました。

「すみさんに連絡先上げていい?」
「もちろん、いいけれど、私なんかに会いたいかな」
高校時代に接点がなかったし、私のことメンドクサイと思っているに違いない。
「ううん、スミさん、すごく会いたいって言ってる」
「うん、じゃ、もちろん」
と答えつつ、すみさんは連絡しないかもな、と思っていました。

でも!
スミさんは、ちゃんとメールをくれました。早速「会おう」となり。
待ち合わせは、グランドセントラル・ステーションにある名物のオイスターバーに。私は牡蠣が食べられないのですが、あそこの雰囲気が好きなのです。スミさんは、「まだ行っていないけど、行ってみたかった」と。

15年ぶりに会ったスミさんは、立派な青年になっていて、それがとても嬉しかった。誇らしいといっても言いかも。変ですよね、同級生なのに。
オイスターバーも、「いいなぁここ。すごくいい」と喜んでくれて、それも嬉しかったな。
スミさん、私が溺愛している甥っ子に似ていたこともあり、すっかり叔母さん目線が入ってしまった私。「あれ食べてみて、これも食べて。子供がいるの?写真見せて、かわいい!」と煩い!
それでもスミさんは高校時代と変わらない穏やかな笑みを浮かべて私を受け容れてくれました。
私がもうすぐフランスに留学することもあっこちゃんから聞いていて、
「すごいよ、羨ましいな。オレもそれしたかったんだよ。INSEADも見てたんだ。でも、銀行がニューヨーク行けっていうから諦めたんだ。オレの分も楽しんでほしい」
と言われました。その率直な言葉が、すごく嬉しかった。私達は同志なんだ、と思いました。同じ時代を生きて抜くためにもがいている同志。

高校時代は、誰もがそうであるように、私も不安定なところがありました。自信がないから男子とは上手く交流できず、その上時折尖ったことを言うから、ちょっと距離を置かれていたと思います。
それが、時を経て、スミさんと再会し、高校時代に戻ったかのように話が出来て嬉しかった。
「うん、頑張ってくる。すみさんの分も楽しんでくるよ」
と答えました。

別れ際、すみさんは、大きな笑顔でもう一度、「応援しているからな」と送り出してくれました。あの時のすみさんの大きな白い歯、今も目に浮かびます。

9月11日、私はパリにいました。
あのニュースを見たときは、現実と繋がらず、私がまだニューヨークにいると思っている旧友らからの「大丈夫だよね?」というメールで、逆に、ニューヨークにいる家族・友人らが心配になったくらい、茫然としていました。

そんなとき、あっこちゃんから、すみさんの訃報を受け取ったのです。
まず同僚達を脱出させて、と活躍したそうです、すみさん。

当時もショックでしたが、何故か今年は一段とすみさんに想いが行きます。

運命って意味があるのかしら。
すみさんが若くしてこの世を去らなくてはならなかった、その意味は永遠に分からないけれど、
私とすみさんがあの時に接点を持ったこと。あれはどんなメッセージを持っているのだろう。
今日はそんなことを考えています。

すみさん、生きていたら、きっと穏やかで優しいおじさんになっていたに違いありません。
すみさんは、イタリアが大好きだったので、サルディニアに行ったこととか、話したかったな。

あの日の犠牲者の方々と残されたご家族の方々の鎮魂を心よりお祈り申し上げます。Love&Peace

2020年9月7日月曜日

フランスの今② Withコロナのバカンスを経て

 


すっかり秋めいてきたベルサイユよりボンジュール!

フランスでは、学校が9月から新学年が始まることもあり、今週は明るい雰囲気が街中に漂っていました。
拙宅は、5校の学校が徒歩圏内にあり、毎朝コーヒーを淹れながら、子供達や若者らが、以前と変わらない明るい顔で通学する姿を、ほっとしながら、でもどこか夢の中の光景を見ているような、そんな気持ちで眺めています。

というのも、フランスのコロナの感染者数は増加していて、9月4日の発表では一日で9千人近くの方々が感染されたとのことです。フランスの人口は、ざっくり日本の半分です。ということは……です。新学期だからといって本当に通学させて平気なのかな、と少し心配。

フランス政府も第二波(と呼んでいいでしょう)は致死率が低いので、静観しているところがあります。
とはいえ、新学期一週間目にして、すでに22校にて感染者が出たため、一時閉鎖しているとか。この先どうなるのでしょう。

以下のグラフは、こちら Worldometers.infoより。フランスの日々の新規感染者数です。このサイトは、分析もしっかりされていて本当に助かります。

無題

この急増の理由は、バカンスが一つの理由でしょう。
私の印象としては、この夏も、フランス人はしっかりバカンスを楽しんでいたように感じます。
もちろん、大陸間移動はせず、国内や欧州圏内と、距離的にはこぢんまりしていました。
でも例えば、次男のボーイスカウトのキャンプは野営ということもあり、通常通り実施されましたし(それも3週間と長期間!)、ノルマンディやブルターニュのビーチに行けば、いつも以上に混みあっていました。

私は、「コロナ禍なのにバカンスに行く」ということが悪いとは思っていません。これから最低でもあと一年はコロナと過ごすことを考えると、上手に息抜きする必要はあると思うのです。

実は私達も、この夏、ビーチで一週間弱を過ごしましたが、バカンス=感染する、ではないんだな、と実感しました。海辺では人ごみを避け、人通りがあるところと室内ではマスクをし、手洗いを慣行していればそれなりに防衛できると再確認しました。

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サルディニアで少し自信をつけたこともあり、八月の終わりには、ベルサイユ宮殿、ルーブル美術館、そしてオルセー美術館を訪れました。ずっとこういう場所は避けていたのですが、何か勿体ない気がしてきたのです。

それでも毎回前夜に「感染者数が激増!」というニュースに、「行くべきか、取りやめるべきか」と悩みました。その度に「そんなこと言って、じゃあこれから二年、どこにも行かずに過ごすの?」と自分に問い掛け、決行することに。

どちらも、事前にインターネットでチケットを購入し、見学時間帯を予約する必要があります。
予約制だから人口密度をコントロールしてくれている、空いているって聞くし、と信頼することにしたのですが……。

ベルサイユ宮殿は、結構密だったのですよ!

この写真、左が本物の鏡の間です。下の部分のたくさんの頭にご注目を!
混んでいるでしょう?
一方、右の写真は、ベルサイユとパリを繋ぐ郊外電車RER C線の車内です。ベルサイユ宮殿仕様になっているのです。オルセーに行くときに乗りましたが、こちらはがら空きでした!

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いつものベルサイユ宮殿に比べたら少し空いているのかもしれませんが、「ちょっとちょっと!」と思いましたね。大ざっぱで、がめついところもあるフランス人だから、ソーシャルディスタンスをちゃんと計算せず、予約を受け容れているとみました。
しょうがないので、混んでいる部屋はささっと通り抜けるように心がけました。
大小トリアノン宮はがら空きですので、私はそちらを勧めます。

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一方、オルセー(↑こちら)とルーブル(ニケ像の写真を見て下さい)は確かに空いていて、ほっとしました。
どちらへも、電車とメトロを使っていきました。

マスク着用し、ラッシュアワーを避け、水、消毒ティッシュを持ち、三十分に一度は消毒。お昼はサンドウィッチを公園で食べて、と人ごみを避ける戦略で行きました。子猿達にティッシュを渡す度に、「またぁ?」と嫌がられましたが、最後の方はコメディのコントのよう。
いつか、チャップリンの「○×狂時代」シリーズのように、「『コロナ狂時代』のとき、ママが消毒マニアになってたね」と笑う時が来るに違いありません。

ちなみにマスクは、パリ市内は外でも着用義務あり。わがベルサイユ市はまだ屋外での着用は義務化されていませんが、自主的にしている人が多いです。

ここまでは、勇気を持って、バカンスも、美術館見学も決行してきましたが、今後、状況によってはキャンセルせざるを得ないこともあるかもしれません。そういう「勇気」も大切。
政府が提示するルールに添うというのは、もちろんですが、丸呑みするだけではダメだと思う。
行動していい、と言われていても、危ないと思ったら、家でジッとする。大丈夫だと思ったら慎重に行動する。
フランスの、義理家族や友達と話すと、同じように考えている人が多いように感じます。
以上、フランスのWithコロナについてレポート致しました。
皆さんの暮らしについても教えて下さいね。

どうぞStay safeで!!

2020年8月20日木曜日

子育てについて

 

兄猿、ちび猿でお馴染みのわが愚息達、現在15歳と13歳。一歳半離れていて、日本だと年子になりますが、フランスの区切りだと2学年離れています。

この夏は、コロナが広がる前に、と、7月の中旬にイタリアのサルディニア島を訪れました。
巻頭と下の写真はサルディニア島で撮りました。透明度、素晴らしいでしょう? 
ちなみに島内のマスク着用率99%、その他のコロナ対策も徹底されていて感心しました。

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人が少ない海で、青魚のように泳ぐ子猿達を見ながら、母猿は頭の中で思い出アルバムをパラパラ。

この10年余り、色んな旅をしてきました。
海辺だけでも、ブルターニュ、コートダジュール、ノルマンディー、カタール、ハワイ島、オアフ島、湘南、葉山、伊豆、西表、琴引浜……。

友人の話やSNSで見かけた素晴らしい景色を見て、「うわぁ、私も子供のときにこういう自然を知っていたら、もっと感性豊かな人間になっていただろうな」と思ったら、次回の旅先はそこ、という。
好奇心が低く、面倒くさがりやの私にしては、色んなところに行ったものです。「母猿、エラい!」と、自分をほめほめ。

そうやって振り返ると、私の子育ては、「私が子供だったら……」という発想に駆り立てられているんだな、と気づきました。
「私も子供の時にこうして欲しかった、ぐすん」というのとは違うのです。自分の子供時代をやり直したい、というのでもない。
「もし今の私が子供だったら」、なのです。

私が子供だったら、たまには好きなだけピザを食べたいよね、とか、
私が子供だったら、たまにはとことん寝坊したいよね、と思うから、
子猿達にも時々そうさせて上げる、という感じ。

あと、
私が子供だったら、思いっきり走り回って、疲れ果てて一日を終えてみたいよね、とか、
私が子供だったら、地球の鼓動が聞こえそうな、そういう自然に触れたいな、と思うから、そういう体験をさせて上げる。

もちろん、教育的な「私が子供だったら」もあります。
私が子供だったら、今のうちに勉強する癖をつけておきたい。その方があとあと楽だから。
私が子供だったら、今のうちに倫理感を身に着けたい。その方が後々ブレ幅少なくて済むから。
私が子供だったら、人を虐めた、という経験を持ちたくない。後々後悔するから。
私が子供だったら、フランスとか日本とか、そういう枠組みを超えたところで将来を考えたい。子供のうちは可能性は無限だから。
私が子供だったら、将来のことを考えずに、興味が赴くままに好きなことをとことん追ってみたい。この先の世界がどうなるかわからないから。
エトセトラ、エトセトラ。

子育ての正解・不正解は、親が判断することではないので、私のやり方がどうこう言えません。

確実なのは、母猿たる私はかけがえのない時を過ごさせて貰っている、ということ。感謝の気持ちで一杯です。子育てを通して、子供時代をもう一度生きさせてもらっているようなところがあります。それも、私の場合は男子母ですので、未知の少年時代を疑似体験させて貰っているという。

こんなことを思うのも、兄猿に関してはあと3年、ちび猿は4年半で、子育て終了だからでしょう。
彼らが巣立つときは、「ああ、楽しかった、ありがとう!」と笑って送り出せる母猿でいたいです。

皆さんの子育てはどんな感じですか?
私と似ていますか?
それとも??
いつか教えてくださいね。

長文を読んで下さってメルシー・ボク-!
どうぞ引き続きStay Safeで。

2020年8月11日火曜日

フランスの夏②自然に寄り添う暑さ対策


暑中お見舞い申し上げます。

……もう立秋を過ぎたので、正しい挨拶は「暑中」ではなく「残暑」らしいのですが、日本もフランスも猛暑真っ只中。今週いっぱいは「暑中」の方がピンとくるのでこれでいっちゃいますね。

それにしても暑いですねぇ。
それでもフランスは、冷房が日本ほど普及していません。
最近になってこそ、「寝室用の冷房を買った」という方の声も聞くようになったけれど、私の周りではまだまだ少数派。
毎夏のように、カニクル(Canicule 熱波)が来るようになって久しいフランスなのに、何故普及しないのでしょう。

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一つには、カニクルは一週間くらいしか続かないことが多いというのがあると思います。酷暑も、トンネルの先が見えていると、耐えられるもの。
また、フランスの熱波はカラッとしているので日本の温度も湿度もという暑さと比べれば、ライト級と言えるのでしょう。

二つには、フランスは、外観に煩い、というのがあります。市やアパルトマンのルールで、空気孔を開けたり、外に装置をつけることを許さないところが多いようです。ブティックなどでも、大きめな空気清浄機のようなクーラーを使っているのを見かけます。

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フランス人は、クーラーなしで、どうやって暑さを凌ぐかというと、答えは明瞭。
都会を脱出して、海へ山へとバカンスに行くのです。
冗談ではありません。
フランス人のバカンスへの執着の強さは、異常なほど。よほど普段の生活がストレスフルなのかしら、などと考えてしまう。

政府も、今バカンス中断してロックダウンしろ、などと言ったら暴動が起きかねないと思って我慢しているのでは。(もしくは、自分がバカンスに行きたいから何も言わない、とか)
と言うのも、今や、コロナの新規感染者数はロックダウン中の4月下旬と同じレベル。海岸線の地方は特に感染者が多くなっています。

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暑さ対策に話を戻します。
都市でもバカンス先でも、やることは同じ。
朝、まだ涼しい間に窓を全開し、冷たい空気を家に取り込みます。そして、暑くなってくる前に(今朝だと9時頃)雨戸も窓も全て閉めるのです。うちは、雨戸の外にある、日除けも下げ、雨戸や窓が熱を室内に伝導するのをできるだけ避ける作戦です。

フランスの家屋は、鉄筋や石づくりのことが多く、昨今は、断熱素材を使うこと奨励されているので、この密閉作戦はそれなりに効果があります。

ただ、薄暗い、密閉した部屋で夕暮れが始まる七時頃まで、じっと過ごすのは気が滅入るもの。バカンスに出たくなる気持ちも分かります。

もしかしたら、パリの住宅に冷房完備がスタンダードになったら、バカンスに出る人が少なくなるかもしれませんね。

いやいや、頑固で、自然が大好きなフランス人のこと。夏は海へ、山へバカンスに出る! 家に居るときは閉めきり作戦を続け、じっと薄暗い中で過ごすんだ!と言い張りそう。

写真は、そんな閉めきった家の窓から撮りました。
いつもの景色も、窓から見ると物語のよう。
何か、自分の心の中を見ているような不思議な気分です。

晴耕雨読ならぬ、避暑内省? この午後は、自分の内側を散策してみようか、と思います。何か発見がありそうな予感。

皆様もどうぞご自愛されますように。

2020年7月27日月曜日

フランスの夏 ① コンセルヴ作り

フランスの、初夏の風物詩といえば、コンセルヴ作り。
コンセルヴ……長期保存できる、瓶詰やコンフィチュール(ジャム)のことです。

6月の終わり、もしくは7月のはじめになると、スーパーで、コンフィチュール用の、ペクチンが加えられたお砂糖が最前列に並べられます。
先日、買い出しに行ったときは、5キロパックの徳用サイズも出ていました。
それを見て、「もうそんな季節なのね」と、時の流れに想いを馳せて……

……なんてゆとりはありません!
特に今年は、もう大変なのです!!
何がって?この写真を見てください。3年に一度の大豊作年なのです。
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こちらはミラベルです。たわわとはこのこと。
タイトルカバーのは枝を軽くゆすって落ちたもので、それだけで5キロほど収穫しました。これからの3週間くらいは、毎週末、この勢いで収穫することになるでしょう。
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そのほかにも、レンヌクロードというプラムも大豊作で、こちらも5キロほど収穫しました。
この写真に一つだけ混じっている赤い実、クエッチュ(プルーン)は、8月中旬が盛りとなるでしょう。イチジクも続々と熟れています。葡萄は八月終わりから少しずつ収穫し、盛りは9月終わりとなります。
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これらをどうするか、というと、もちろん風物詩のコンフィチュールも作りますが、そんなに作っても食べきれません。昨日だけで13個作りました。
すでに、フランボワーズのを20個ほど作りましたし、このあとブラックベリーも、クエッチュ、そして花梨も控えています。
友人らに上げるにしても、多くの方は、わが家同様、夏はコンフィチュールを作っているでしょうから、お裾分けするにも考えてしまいます。

そこで、登場するのが、コンセルヴ。
瓶詰にするのです。
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このような瓶を煮沸消毒し、別売りしているオレンジのゴムを付けます。
そこに、種抜きしたプラム類を詰め、ふたをしっかりと閉じます。
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この瓶を鍋に入れて、
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義母の別荘には、こんな大きなコンセルヴ専用の鍋があります。
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もう一段重ね、計10個。瓶が被るまで水を注ぎ、ふたをしてガスに火をつけ、100℃以上で10分ほど加熱するだけ。
火を止めたら、冷めるまで放置しておきます。
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水もお砂糖も加えません。年中涼しいカーブに貯蔵すると、一年以上保存ができます。
そのまま食べてもよし、タルトやケーキに使ってもよし。

夏は、ポタジェ(菜園)で採れた、トマトやトマトソース、ラタトゥイユも瓶詰コンセルヴにします。

一日がかりとなるので大変ではありますが、普段しない作業なので楽しくもあり。
また、天の恵みである果物や野菜を無駄にせず、美味しく保存できるのが嬉しくて、せっせと採って、ゆすいで、切って、詰めて、とやっています。

ジャムの空き瓶などでも同じようにできますのでお試しください。
「真空瓶詰め 作り方」などで検索すると、もっと丁寧な作り方が見つかると思います。
ふーっ。
一仕事を終え、ふと顔を上げると、空は茜色。
フランスの夏はこれからが本番です。
Stay safeしながら、できることをやっていきたいと思っています。
皆様も、どうぞご自愛くださいませ。