2021年5月27日木曜日

幸せとか。

 

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今日は、考えがまとまらずに空中分解する可能性大のお題、「幸せ」にチャレンジしてみたいと思います。大仰なことを書こうとは思っていませんのでご安心を。ふーんふーん、とお気軽に読み流して下さいませ。

少し前のこと。
夜、ティヨールという葉のハーブティを片手に、ふらふらとネット上で道草していると、ある女優さんのインタビューに出会いました。若い頃から活躍している方ですが、気づくと彼女も四十代後半の、確固とした大人の貫禄を纏う女性になられていました。
長いインタビューの中で、「貴女にとって、幸せとは何ですか」と訊ねられると、大女優は腕を組み、首を傾げ、言葉を探されること数秒。途中、あ、と閃いたようですが、次の瞬間また、うーん、と躊躇われる。長い睫毛を伏せた横顔は、皺すらも美しくて私も画面に見入ります。
そして、ついに心を決められたよう。カメラをじっと見据えられると、ゆっくりと、噛みしめるように答えられました。
「幸せとは、簡単に、使ってはいけない言葉」、と。

私、はっとさせられました。
美味しいものを口にしたとき、道端の小花の愛らしさを目にしたとき、素晴らしい小説を読み終えたとき、何かにつけて、「幸せ」を噛みしめていた私。まさに、幸せという言葉を、安易に、簡単に使ってきました。
だってそうよ。小さな幸せを確認しながら暮らしていかないと、くらくらするほどの悲劇一杯の世の中だもん、鬱になっちゃうわ、と、幸せを屑ダイアのようにかき集めてきたのです。

でも、彼女の言葉で考えさせられました。
幸せって、確かに、もっと尊いことなのかも、と。
幸せは、「嬉しい」「感動!」「心躍る~」というのとは別格の言葉であり、境地なのかも、と。
でも、じゃ幸せって何?

そんなことが頭の片隅にあった先日、日本の母に「母の日コール」すると、いつものフレーズ、「はいはい、ありがと。お陰様で幸せですよ。あなた達が幸せでいることが何よりも幸せ」と、繰り返します。
いつもなら、「はいはい、こちらは大丈夫ですからご安心を」などと、笑いながら答えるのですが、今年は、「ああ、なるほど!」と、膝を打つ私でした。
幸せって、自分のことではないのかも。大切な人のために喜ぶ気持ちなのかも、と。

ちょっと優等生過ぎる答えかもしれませんが、きっとそうなのだと思いますす。自分のことではなくて、大切な誰かのために喜ぶとき、一緒に祝うとき、温かい何かが湧きあがってくる、あれが「幸せ」。そうに違いない。
だから、大切な誰かが─── 家族でも、友達でも、一方的に想っている誰かでも、ペットでも、見知らぬ民に対してでも───そういう存在がいない人は、たとえ社会的に成功していて大金持ちだとしても、幸せを感じるのは難しいのだと思う。

私も大女優を見習って、これからは「幸せ」という言葉を「簡単」に使わず、貯金しようと思っています。そうすると、何か大きな幸せが、大切な人達に訪れそうな気がしませんか? そんな幸せを一緒に味わわせてもらえれたら、それこそ、至福ってやつですよね。

そして自分のためには、「嬉しい」「美味しい」「きれい」「素敵」「感激!」「有難い」「感謝」……数え切れないほどある喜びの言葉を使って、その時々の気持ちを表そうと思います。

さて、窓の外に目を遣れば、朝からの雨も上がったよう。また森を歩いてくることにします。ウォーキングは私の小さなし……じゃない、大きな喜びとなりつつあります。いつかそんな話も。

皆様、どうぞ引き続きStay safe。ご自愛下さいませ。

2021年5月7日金曜日

自由とか。



いつになく肌寒い5月。先ほどから雨も降りだしました。そんなベルサイユの書斎より、最近、頭の中で切れ切れに考えていることを、忘れないうちに書きつけておきたいと思います。しばし、徒然なる私の考え事にお付き合いくださいませ。

まずは自由について。

最近頭の中で繰り返される映像があります。
それは、あるピアニストが演奏する姿です。
ピアノが好きな長男のお陰で、その動画に出会いました。

日本だけでなく世界を代表するピアニストですから、他にも動画は沢山あり、コンサートのビデオなど、以前にも、幾度か観たことはありました。細面の、品のあるお顔立ちに物静かな表情を浮かべて音楽を奏でる姿。美しくて理知的な印象がありました。

ですが、それらは随分昔のものだったようです。私は、自分が年取ったことを忘れがちなのですが、ついでに、昔から知っている人も年を取らせない、という癖があり、時折、こんな風に歳月の流れに足元を掬われることがあります。
私の中では永遠に40代だったピアニストも、その動画では、グレイヘア世代になられていました。ウィキペディアをみると1948年生まれとあります。2017年の録画ですのでピアニストは、古希一歩手前、というところでしょうか。
元々スレンダーだったお姿は、さらにほっそりとされ、化粧っ気はなく、服装も、森を散歩するときのようなカジュアルな装い。この動画は、音楽の講義風景を録画したものですので、語りも多く、初めて彼女が話す様子を観ました。明確で歯切れ良く、大勢の方を前にしても固まることなく自然体で話される姿が、堂々とされていて格好良いこと!
私の頭の中では、もっと寡黙でしとやかな人だろう、と想像していたので、「ふーん、ふうん、こういう方だったんだ」と、その意外な実像に惹きつけられていきました。

そして、いよいよ演奏。モーツアルトの協奏曲で、「ダダーン!」と始まります。
その時の彼女の身体。
全身が喜びに震えているように感じました。あの細い身体、両手から、どうやってあのようなパワフルな音楽が奏でられるのか。いや、無学なことは自覚していますので、音楽については口を噤みましょう。
それに、私、音楽どころではありませんでした。彼女の身体と手の動き、それだけで、私の小さな心はいっぱいいっぱい。鍵盤を叩く度に、ピアニストの身体が弦となっているかのように振動します。それを観る私は、うわーっ、うわーっ、と、それだけ。目尻さえも濡れてしまって、そんな自分に驚きました。

何といえば良いのでしょう。まるで、感受性という生き物が、自由に、そう、自由に自分を表現している。そんな印象を受けたのです。誰の評価も、誰の目も耳も気にせずに、制約一切なく、自分が感じたものを表現している。顔が、身体が、音を奏でるという至上の喜びを表している。
これが、自由というものなのか、と思いました。

コロナ禍で動き回る自由を奪われる日々の中、精神の自由を知るという、神様のいたずら。あれから、幾度となく、あの動画を見ています。時には音すら消して。音楽の動画だというのに、です。

その度に、考えます。ピアニストが持っている「自由」のことを。
きっとあの方は、少なくとも音楽に関しては、人に嫉妬するようなことは、ないでしょう。嫉妬心から解放された心ほど自由なものはない、と思いませんか。
きっと、認められたい、とか、そういうのもない気がする。
いや、ピアノを弾く喜び、それを人に伝えたいとか、教えたいといった願いはあるかもしれませんよ。でも、弾いているときは、ただただ嬉しくて、そのうち没頭し始めたときには、無心になっていると思います。
そうか、無心になっているとき、人は自由なのかな? 
自分の邪心や野心からも解き離れて、唯々もっと高いところに羽ばたいている、そんなイメージかな?

もちろん、自由の境地に達するために、ピアニストは、幼い時から死にものぐるいでピアノと向き合ってこられたのでしょう。そして、古希近くなって自由になった。ああ、なんて厳しい。なんて素晴らしい。

……と、勝手なシナリオを描いて、勝手に憧れています。
自由。
本当の自由。
自由な心。
ため息の午後……。

コーヒー淹れて一服することにします。
次は、幸せとか、そんなことについて書いてみたいと思っています。
ではまた!