今年の桜はいつもにも増してきれいでした |
少し前までは、横浜を離れるのが とてつもなく辛くって、自分でもちょっと困っていました。
でもご安心を。最近はこの別れを受け入れられるようになり、少し落ち着いてきました。
横浜の誇り、三渓園! |
それは、或る明け方。
夢だったのか、夢うつつのフラッシュバックだったのか、
私がママチャリに乗って、子猿たちの学校近くの坂を上っている、
そして門のところから、下を見ている、
坂は緩やかにカーブして、軒先の植木から花がほころんでいる。
坂は緩やかにカーブして、軒先の植木から花がほころんでいる。
……そんな残像と共に目が覚めました。
そのとき、何とも言えない悲しい気持ちになったのです。
まもなく、私たちはここを去る。
子猿たちはこの学校を去る。たくさんの楽しい日々を過ごした学校を去る。
私もここでたくさんの友人ができ、たくさんの行事に関わったけど、もうおしまい。
子猿たちはこの学校を去る。たくさんの楽しい日々を過ごした学校を去る。
私もここでたくさんの友人ができ、たくさんの行事に関わったけど、もうおしまい。
またここに、遊びには来れるけれど、
もうそのときは、子猿たちは、今の子猿とは違うし、
他の子供たちだってそう。大きくなって、知らない子になっている。
ママ友とだって、今とは違う関係性になっているし。
あぁ、もう二度とこの幸せだった2年(まだ3か月ほどいますが)を繰り返すことはない。
そんなことを思ったら、もう、悲しくなっちゃって、また布団の中にもぐりこみたくなりました。(……でもお弁当作らなきゃだから起きましたゾ!)
三渓園はいつまでもこのままでいてね。 |
今はそんなメランコリ―から脱しましたので、大丈夫です。
でも、そんなことから、ふと、時間って何なんだろう、って思ったのです。
時間って、時間なんだけど、
例えば、今夕、子猿たちがすごく愛らしく思える。
明日も、この暮らしが続くだろうから(touche du bois!)、子猿たちにはまた会える。
でも、今、この瞬間の子猿たちにはもう二度と会えない。
明日の朝、寝ぼけ眼で朝ごはんを食べる子猿たちは、今夜の二人と一見変わらないんだけど、
実は違う。
一晩寝て、少しだけ大人になっている。
今朝も、夢にも出てきた、子猿の学校への坂を上りましたが、
例えば、来年の同じ時期に上ったのなら、そこから見る風景は、似ているだろうけど、同じではない。たとえ似た天気であろうと、風が違う、何かが違う。
今年は桜があまりにきれいだから、 別れがこんなに悲しくなってしまったのかも。 |
そう思うと、時間というのは、「≒記憶」ということなのかなぁ、と思ったり。
生まれてきて、死に向かうまで、たくさんの時間、たくさんの記憶を作って、で、それで?
ついでに考える……記憶って何なんだろう。(……ひょっとして愛なのかな?)
いつか認知症になって記憶を失ったら、それってどういうことなんだろう。
実は失ってなんかいなくて、ただ思い出せないのかな? フロイトによると、そういうことだよね?
実は失ってなんかいなくて、ただ思い出せないのかな? フロイトによると、そういうことだよね?
まだまだきれいな写真がたくさんあるんですが、
しつこいのはよくないので、
最後に一枚。
花より団子、これが言いたかった! 桜団子は季節ものかな? 三渓園のお団子はどれも本当においしいのです。 |
良い一週間を~!