昨日行った7区はCoutume cafeのカプチーノ。 待っている間に読んだのは、久々の椎名誠。 笑いを堪えニヤニヤする不気味な人になっていました。 |
順調に……とあるべきところですが、まだ実感が湧かずにいます。
まず手を付けたのは、パリのアパルトマンだったら大抵付いている、地下のカーブ(物置)の整理です。
うちの場合は、地下3階にあり、6㎡くらいあるのかな、セメントむき出しの一室です。
先日は、この地下3階に下りていくと、いつもは真っ暗で、ネズミ取りがそこらに置いてあるおどろおどろしい通路に、温かい灯りが燈っている。なんだろう、と思ったら、偶然隣人がご自身のカーブを整理中だったのです。中を見せていただくと、なんと整然としていること!まるで、小さなお部屋のようにデコレーションされ、壁には棚が設置されてて、工具やワインも貯蔵されている。灯りもウチのみたいな裸電球ではなく、こじゃれたランプが設置されていました。
ウチのは、もう段ボールの山です。それも10年ほど放置しているため、箱が崩壊しかかっている。そこで、段ボール箱の入れ替えという余り意味のない作業をしています。
箱の中からは、出てくる出てくる、懐かしい本。
グラハム・グリーン、Morris West、アガサ・クリスティー、井上靖全集、モンテクリスト、先日読んだ中島さおりさんによる翻訳本に出てくるBelle du Seigneur……。
嫌になるのは、同じ本が出てくること。バカみたいですよねぇ。
とにかくパラパラやり始めたらもうおしまい。段ボールを投げだし、コーヒー片手に読書タイムになってしまうのです。
世界には色々な作家がいて、星の数ほどのストーリーを生み出しているんだな、って、今更ながらに感銘を受けます。そして自分の知らない世界観を持つストーリーに共鳴できることがまた不思議。
中でも一番嬉しい「再会」は、井上靖の「星と祭」という新聞小説でした。いつ買ったんだっけな、この本。
そもそも新聞小説って好き。
プロット・構成等は連載開始前に決まっているのでしょうが、それでも長い連載期間中に作家が辿った心のジャーニーみたいなものが垣間見られる。時には、ちょっと寄り道したり、道に迷いかけたり、という思考の遍歴に親近感を感じるのだと思います。
さて、「星と祭」のあらすじは、
「愛する娘を湖で失った会社社長架山は、悲しみを癒すべくヒマラヤで月を観、娘と共に死んだ青年の父親に誘われ琵琶湖周辺の古寺を巡った。--・死・を深く観照した香り高い名作。」
とあります。これは角川書店の創立者である角川源義氏が書いたのかな?……この角川氏はあとがきを書かれていて、これにも胸が詰まされるものがありました。
小説は主人公架山が、娘の死後7年経ち、その悲しみに向きあう様子が描かれています。非常に悲しい話ですが、井上靖の淡々とした文章に救われ、感情に流されずに読み進むことができます。
架山は仲間からの誘いを受け、ヒマラヤで月を観るという会に参加することになります。月を観ながら娘のことを静かに考えようと思ったのです。
このヒマラヤ旅行記の箇所がいいの!
井上靖もヒマラヤに行かれたそうですから、そこで感じられたことなのでしょう。
チベットの厳しい環境下で生きる村民たちをみて、
「どんなに生きにくい条件があっても、なおそこから離れないで、そこに定着している人間があるということを知った。生きにくい条件の中で、神に祈って生きている。」
という下りがあります。
この部分で、ふと、日本にいる家族・友人らのことへ想いが飛びました。
日本ってチベットなどと比べ物にならないほど物質的には豊かな環境だけど、とても「生きにくい」社会。私のようにそこから逃げるのではなく、生きにくくても踏ん張ってがんばって暮らすみんな。
そんな皆を愛しく思うのでした。
また月明かりの下、山のふもとのラマ教の僧院を見て、
「あそこには生きることについて真摯に考えている人たちがいる」
と感じます。
そうだよね、聖職者って、そういうことだよね。
その他、架山氏が娘が溺死した琵琶湖周辺の十一面観音像を拝みたい、と思う気持ちが「これは信仰ではない。お顔を拝見していると心が安まる、それだけのこと」というところも共感するものがあったり。
先日は画家のミレーが夜空を描いた作品を、ウエブ上ですが観てうっとりしました。
星と月と夜。
なんて静かで落ち着くのでしょう。
ミレーといえば、友人が興味深い本を出版されました。 ミレーの夜(黄昏)好き、冬(雪)好きは、当時のフランスの画家ではちょっと珍しいそう。 |
……いかんいかん。完全に現実逃避していますね。
軍手はめて、地下にもぐり、荷造りに励むことにします。
どうぞ良い週末を!