2011年9月17日土曜日

声の表情 by 大江健三郎

先日も書いた、大江健三郎のエッセー「恢復する家族」を読み終えました。

この本でも書かれているように、田舎から上京して数年後に小説を書いた大江氏は、日本語がわかりづらい、とよく批判されるらしいのですが、ちょっと同感!
まわりくどいというか、堅いというか、でもそれが彼の独特の語りとなっている。秀才なのにとっても身近に感じられるのも、この「上手く説明できないんだ、でも僕なりの言葉で説明します」と行間、行間で彼が言っているような気がするからでしょう。

どの話も胸打たれるものがあるのですが、中でも「声の表情」というくだりには、涙腺が弱まりました。

氏の長男さんは知的障害を持って生まれた方です。視覚も問題があり、そういうことから、耳に頼ることが多いと。それも音楽的才能が卓越されているので、人の話し方・声に表情というものを見出されているらしい。

で、あるとき、もう亡くなられて何年も経つ方の話をしていたときに、「あの方の声を覚えているかい」と息子さんに聞くと、「はい、この前も聞きましたし」と答えたとのこと。多分、息子は、「数年前」というのを「この前」と間違って表現したのだろうと。
これ、幼児がよくやる間違いですよね。

でも、大江氏は、もしこの息子が、本当に昨日のことのようにこの亡くなった方の声を覚えているとしたらどんなにいいことだろう、「もっと一般化し て、我々の生活に、懐かしい死者の声が、時おり聞こえてくるようであれば、そのような暮らしは、どれだけ豊かで奥深いものとなることだろうか?」
と語っています。

時、偶然にして、友人が亡くなって一年経ちました。彼女は、静かで、ちょっとかすれた声をしていました。
一緒にコーラスやろっか、とチャレンジしたけど、「私、声がでないから」と諦めた彼女。私は大声は出るんだけど、音痴だから辞めたんだっけな。

亡くなってから、彼女を思い出すときに蘇るのは、彼女のさわやかな笑顔と、そのかすれ声です。
もし、ワインのように「表現してください」と言われたなら、「秋風のような声」というのが私のとらえ方になるでしょう。
森や、風が木々を通り過ぎるときなどに、「あれっ?」と思うんです。今の、Y子さんの声?って。
そして、そのたびに、とても温かい気持になります。あぁ、近くいるって。

もし、大江氏の息子さんが本当に、遠い昔に亡くなった方の声の表情を記憶できる、「特殊技能」を持っておられるなら、それは本当に、英語で言うところの「Gifted」だなぁ、って思います。

ということで、私の中の大江ブームはしばらく続きそうな気配です。