2018年6月13日水曜日

女であること



またまたご無沙汰してしまいました。
初夏のころ、いかがお過ごしでしょうか。
既に梅雨入りしている地域もあるのでしょうか。
こちらフランスは、夏のような快晴の日もあれば、雨ざあざあの日もあり、相変わらずの気まぐれなお天気に振り回されています。

このところ、珍しく忙しい日々を過ごし、その合間合間にニュースを拾い、インスタを覗き、小説を読んだり、書いたりしていました。


先日は、芥川賞を受賞された、若竹千佐子氏の「おらおらでひとりいぐも」を読む機会がありました。

桃子さんという、74歳の主人公の、その時々の心の声を綴ったお話。
時には母を、時には自分を重ねながら読みました。

桃子さんの東北弁混じりの回顧談の中で、その昔、オレオレ詐欺に引っかかった、という話があります。
桃子さんは、そのことを娘になじられると、
「母親というものは、息子にのし掛かってしまった、潰してしまったという、そんな罪悪感から、敢えて詐欺に引っかかってしまうものなのだ」
と罪の意識と自分のバカさに恥じ入ります。

この桃子さんの解釈に、母親の業をぶつけられ、同時に哀しみがつーんと来ました。


さっき、兄猿の日本語補習校のバッグより、
先月の、母の日用に学校がお膳立てしてくれたメッセージが出てきました。
絵文字ってマジ頭を退化させる、と確信するとともに、
こんなメッセージですら嬉しいと思ってしまう母猿たる自分に苦笑い。

私も、例えば夫に何かイライラするときなど、息子達のほうが私の気持ちを汲んでくれることもあって、それで救われるなぁと思ったりするのですが、こういうのって、良くないですよね。
私は母親だし、大人なんだから、子どもに救われてなんかいないで、自分でイライラを処理すべきだし、それを察することができない夫に対して、直接「察してよ」と話し合い・談判すべき。
これと似た感じで、息子に、夫の役割や家長の役割を求める母親って結構多いような気がします。


これはフランスの母の日に兄猿より贈呈された「作品」。
チビ猿は何くれたか覚えていないという薄情なる母猿です。

おらおらで・・・・・・に戻ると、

亡き夫の墓参りに行く道々に、桃子さんは過去の自分と対話します。次々と若かりしころの桃子さんが登場するのです。
その中で思い出せない時代がある、そんな下りがありました。

私もそう。


子どものころの自分は覚えています。

アルバムの写真から後付けされた思い出もあると思う。

中学、高校時代は鮮明に覚えている。


女子大時代もまあまあ覚えている。でも少し希薄でもある。サボってばかりいたからかもしれません。少々内省的だった時代だからかもしれません。

でも友達のことはよく覚えています。みんな刺激的でしたからね。

新卒で働いたANA時代も覚えている。同期と駆け抜けた時代だから、お互いのことを良く覚えている。


INSEAD時代も結構覚えているあたり、同志がいる時代は覚えているものなのでしょう。


NY、ロンドンの銀行時代もまあまあ。でも具体的に、自分がどんな容姿だったか、ヘアスタイルだったか、もう覚えていません。写真の有る無しで、記憶の鮮度が変わるのかも。


そして結婚し、子育てしてきた、この15年近く。

この期間の、自分というものの記憶が殆どない!
子猿たちのことは良く覚えているけれど、夫はその枠組みの中で覚えているけれど、自分のことは思い出せない。
ご飯を作って、家族が喜んでいる顔は思い出せるけれど、料理を作っている自分とか、食べている自分が思い出せません。
よく、出産にまつわるエピソードが話のネタになることがありますが、その時に自分はどんな様子だったか、時にはあの痛みすら思い出せない。

美化するわけではありませんが、それくらい、母親というのは、家族のことで頭が一杯なんだろうな、と思う。

そして、それくらい、幸せなんだと思う。

でもね、やっぱり、自分のこともちゃんと見てあげないとね、とも思う。

ボロ雑巾のようになって老婆になるのは、私も家族も望んでいないことですし、大体、「私の人生」に失礼だと思う。

そんなこんなで、女ってさ、と考える今日この頃。


最近の、ブルドーザーのように24時間を押し切る、そんな日々を反省し、
こんな本を書きました。
フランスで見聞した暮しの美学について綴っています。

もし、ご友人などで、こういう話にご興味がある方をご存じでしたら、この本をご紹介頂けると幸甚です。
プレゼントにも程よいサイズ・お値段かと。

なんて、最後は宣伝で恐縮です。
何卒ごひいきにお願いいたします。

「フランス伯爵夫人に学ぶ 美しく、上質に暮らす45のルール」

ドメストル美紀著
 出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン 定価1620円