2014年7月3日木曜日

トラウマの消化法

昔ながらのペンギン型カキ氷機を見つけ
ついつい買ってしまいました。
7月に入り、ブログを書こうと思いつつ、上の写真を一枚、アップロードしたままになっていました。
引っ越しの片づけなどは一段落ついているというのに! 

理由は、図書館です。
新居の近くに素晴らし図書館があり、早速、本を借りまくっているのです。
図書館の近くには障害者のための施設があり、そこで作られたパンが売られていて、これが懐かしいふわふわの甘~いパン生地で作られたアンパン、カレーパン、チョココロネといった、これまた懐かしい品揃え。図書館に行く楽しみも2倍なのです。

ちなみに、子猿たちは今、近くのインターナショナルスクールが主催する「サマースクール」というものに通っています。遊び半分、お勉強半分のプログラム。
英語環境に慣れてもらうことが目的です。

昨日は、兄猿が蜘蛛を指して、「ママ、スパイダーだ」というので驚きました。
今まで日本語が出てこないところはフランス語の単語が挿入されていたのが、すでにスパイダーと来たか。
……一方、放課後、パリの友達にフランス語で手紙を書かせたら、気絶しそうになったほどスペル間違いだらけ。英語の吸収、早いのはいいのですが、フランス語を忘れるのはもっと早いようです。トホホ。

他方、ちび猿は、人生我がもの顔で生きるふてぶてしいヤツ。新しい環境でも一人フランス語で通しているらしい。そんな非社会的な彼を、先生は「独立心があって素晴らしい」とほめてくださいます。これが噂のアメリカ式ポジティブフィードバックというヤツなのでしょうか。

とにもかくにも、全てが「ファンタスティック!」なアメリカン・スピリッツに日仏との文化の違いを感じつつ、まぁ、これでやってみてどうなるかを観てみよう、といい加減に放置している母猿です。
子猿たちは秋からはこのインターナショナルスクールに通うのです。

……おっと、毎度のことですが脱線してしまいました。

今読んでいる本について書きたかったのです。「高台の家」という本で、水村美苗さんの小説、「母の遺産」の主人公である「母」、水村節子さんが作者です。

美苗氏の「母の遺産」では、非常に我がままで家族に対する思いやりが欠けている人としてお母さんが描かれています。「高台の家」における節子さんも、その描写を裏切らない。自我が強く、その自我に忠実に正直に生きた方のようです。
「高台…」では節子さんの幼い時からの生い立ちが描かれていますが、その部分を読んでいると、この自我の強い性格は、彼女の両親のこの言葉、あの態度に傷つき、この体験、あの出来事により作られたんだなぁ、というのが如実に見えて興味深いです。

さて、先日は子猿を学校に送り込んだあとのバスにてふと亡き父のことを思い出すことがありました。

狭いバス内で、家族と思われる人に、ちょっと乱暴に話している老男がいて、家の中では威張りん坊だった父を彷彿させたのでしょう。

「威張りん坊」と書くとかわいらしいですが、若いころは、父の、「お茶もってこい!」といった命令調なのや、隣室で勉強しているっていうのに無神経にも大音量でテレビを観るのとか、本当に嫌でした。父は手を上げることはありませんでしたが、怒ると乱暴な口調になり、酔っぱらうと醜いオヤジとなっていたものです。

こんなの、よくあることですよね、きっと。
時代は昭和真っ只中ですし、親子の関係性が今とは少し異なり(そうでもない?)、父は家長だから少しくらい横暴でもよし、そして子は従う、という古い常識が残っていました。それに世の中厳しいですからね、父も余裕がなかったのでしょう。

でもバスの中で、ふと気づいたのです。
これって、いわゆるモラル・ハラスメントだよね、って。
子供のことを思っての指導でも何でもない、ただ自分の怒りを発散させ、自分の存在を認めさせたいがために、大きな声や乱暴な態度で弱者を威嚇させるわけですから。
今までは、「べつにねぇ、まぁいわゆる普通の家庭だったし、よくある雷オヤジって奴でしょう?」と特別視したことがありませんでしたが、いやいや、普通なこととして受け止めなくてはいけないことではない。あれはモラハラであり、私は気の毒にもそれを受け止めてしまったのだ。

そんなことを考えるていると、日本人の多くは、大なり小なりのトラウマを抱えて生きているんだなぁって、本人は気づいていないかもしれないけれど、そうなんだなぁ、って気づきました。また、あとで識者の友達と話していて、日本の親子関係、夫婦関係などでは、当たり前のこととしてこういうモラハラが受け入れざるを得ない状況になっていることを教えてもらい、なるほどなぁ、と思いました。

バスの窓から見えるたくさんの家やアパートの、一見平和そうに見える各家庭で、悪気なく家族を傷つけたり、家族への甘えから自分を律することを忘れたような行動を取ったり、というドラマが繰り広げられているんだろうな。

犠牲者(というのには大げさすぎるかもしれませんが、他の言葉が見つからない)にとって大切なのは、そこからどのようにして前に進むのか、ってことだよね? トラウマを受け止め、乗り越えて、進むことで人は成長するんだよね?

「高台……」の節子さんの育った環境がモラハラだったとは言いませんが、感受性強い彼女は、周囲の言葉・態度・見識に大きく影響を受けて育っている。そして妬みや怒りといったネガティブな気持ちをバネとして上昇志向を持つようになるのですが、娘である水村美苗さんの本を読んでいる限り、水村節子さんは、精神を高めるような生き方はされなかったように感じられます。
私は読者の身勝手さで、「これは節子さん、トラウマの消化方法を間違えたからではないか」と考えています。トラウマは打ち返してはいけない。飲み込むものなんだと思うのです。そして体内で消化するものだと思うのです。その過程で多少の消化不良や腹イタも経験するかもしれないけれど、それは、人生の不条理、しょうがないことなんだよね。

「母の遺産」では、そんな節子さんを看取る中で、母を受け入れ許す娘たちの心模様が描かれていますが、これは娘たちが各々のトラウマを消化し乗り越えていくジャーニーのようで、読んでいてとても前向きな気持ちになったことを思い出します。

……と、「母の遺産」を読んでいらっしゃらない方には良く分からないことを長々と書いてしまいましたね、こめんなさい。

世間では都議会における下劣なヤジについて、「どうだっていいじゃないか、その程度のこと」と言う、大いに時代錯誤の御仁も多いようですが、その方たちは自分の周りにどれだけ毒を吐いて生きているのか、そんな生き方、むなしいじゃないか、と気づいてもらいたいです。

ではでは、また行きます!